愛を疑わせる誘惑 「もしも神の子なら」 ルカ福音書第4章3節

2025/03/12

悪魔 悔い改め、荒れ野 神の愛 誘惑

2025年3月9日 大斎節第1主日 

イワン・クリムスコイル「荒野のキリスト」1872年,  トレチャコフ美術館.

荒れ野での悪魔の誘惑は「疑い」の誘惑です。「自分は神に愛された神の子」であることを疑わせるのです。

私にとっての荒れ野は祈りや礼拝で神を体験しないときです。祈りが枯れ、礼拝がつまらなくなり、聖書に何も感じず、説教が苦痛になります。 

そして悪魔の誘惑に負けると、人からの承認を求めるようになります。「先生よかったです。ありがとうございます」と言われて良い気分になるために力を尽くし始めます。

イエスさまにとっての誘惑の場は、最も人間的で生々しい40日間の断食後の凄まじい「飢え」でした。そこで悪魔は誘惑します。「もしもお前が神の子なら・・・」。

ここで試されているのは主イエスさまがパンを石に変える力を持っているかどうかだけではありません。「神の愛する子」であると信じられるかどうかです。自分の力で神の愛を証明するか、それともあえて何もせず、ただ父の愛を信じるか。自分の力を捨て、無力なまま、謙虚に、神の愛を信じ、神に忠実であり続けられるかどうか、です。

力づくではなく力を捨て、自分で自分を救わず、ただ「私は神に愛されている子だ」と信じて救いを待つ。この信頼の道は十字架へと続く道です。力を捨て、十字架の死に至るまで父を信頼し、謙虚であり続けることで、主は悪魔に勝たれました。そして神の愛を体中で感じる復活の命が開かれました。復活の命とは神を直接感じる礼拝のような命です。

イエスさまの戦いは、力を我がものにしようとしたアダムの罪を、神を試したイスラエルの罪を、神の愛を信じずに自力に頼る私たちの疑い深い失敗を、やり直すことです。疑いではなくて、神の愛への信頼をやり直すことです。そしてイエスさまの「やり直し」に結ばれて私たちは初めて忠実に神の愛を信じ、復活の命に与かります。

この大斎節、自分の力を捨て、まず「私は神さまに愛されている神の子どもだ」と信じましょう。同じように「私たちの大津聖マリア教会は神に愛されている教会だ」と信じましょう。すべての教会の活動はここから始まります。

花の枯れた荒れ野の祭壇から、主の声を聞こう。「悪魔が誘惑するとき、力を捨て、一緒に信じよう。私たちは神に愛された子供だ。」


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聖公会京都教区の司祭です。大津聖マリア教会勤務です。うつ当事者として自助グループ「マ・カタリーナ」の世話人もしています。リンクをご覧ください。

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