2025年3月2日 大斎節前主日
![]() |
ラファエル、「主の変容」1516-20年.バチカン美術館 |
信徒だったとき、福祉関係の仕事の疲れと、プライベートの問題とで人生に漕ぎ悩んでいました。それでも毎主日、疲れた体に鞭打って、辛い現実から逃げるように、教会へと続く石段を登りました。そうして聖餐式に参加すると、祈りの中で神さまに親しく触れる体験をします。そうして礼拝が終われば何かの力を得て、「下界」の現実は何も解決していないけれど、今度はイエスさまと共に、苦しい現実へと石段を降って行けました。人に仕えよう、という気持ちが少し湧きました。
礼拝体験、祈りの体験、主との親しい友情の交わりは、その心地よさに留まるためではなく、現実の苦しみへと降りていくためです。
今日のイエスさまの「変容」の箇所の直後に続くのは「悪霊に取りつかれた子を癒す」場面です。ラファエルの絵にも右下に救いを求める親子の姿があります。山の上で祈っておられるときに輝いた神の栄光は、山の下の現実の苦しみへと降っていくためでした。そこで人を愛して癒すための祈りでした。
もちろん現実から逃げて「祈りの栄光」にずっと留まりたい気持ちも分かります。ペトロは「この輝かしい山の上に祠を立ててここに留まりましょう」と提案しますが、神さまの暗雲に打ち消されます。残ったのは「これはわたしの子、これに聞け」という、これから人々の苦しみへと、山を降っていくイエスさまへの従順の命令です。「わたしの子のあとを付いて降って行け」と。
イエスさまが栄光に留まらず山を降っていくのは、その祈りが愛だからです。モーセとエリヤと語り合ったのは、私たちを愛し、私たちの罪と死を引き受けて死ぬ「最期」です。罪に苦しむ私たちと連帯して苦しみ、十字架で罪を赦し、聖霊と新しい命を与える、愛の祈りです。
イエスさまの祈りは人々の現実の苦しみ、痛み、悲しみ、理不尽さに降っていく祈りです。だから主の祈りを祈る私たち教会もまた、苦しい人間の現実へと降っていきます。主と共に降っていきます。自分だけではない。他者の苦しみの中に降っていくときにこそ、主イエスさまは共に降ってくださいます。
あなたの祈りの山の麓では、だれが苦しんでいるでしょうか。礼拝とは、その人を愛して、癒して、仕えるための神の栄光なのです。
礼拝体験に力づけられ、自分の苦しみの現実のなかに、そして他者の苦しみのなかに、主と共に降っていきましょう。「ハレルヤ、主と共にいきましょう!」