2025年2月2日 被献日
ジョヴァンニ・ベッリーニ. Presentation at the
Temple. Fondazione Querini Stampalia. ベネチア.1460-1466. |
今日は被献日にふさわしく、聖布を献げます。朝の琵琶湖のように優しく美しい刺繍です。祈りのこもったひと針ひと針に命が宿り、復活して今も生きておられる、イエスさまが現れる場となります。
聖公会では「奉献日」ではなく「被献日」と呼びます。献げる自分から、献げた自分の上に現れる神さまへと焦点が移っていきます。
マリアは聖霊によって救い主を妊娠・出産しました。だからこそ我が子の行く末を案じつつ、出エジプトでの犠牲を記念する「初子の奉献」のために神殿に参りました。
そこで待っていたシメオン翁は喜び溢れて言いました。「わたしはこの目で主の救いを見た!」
そして喜びだけではなく苦しみと痛みをも予言したのです。「あなた自身も剣で心を指し貫かれます」。
マリアは祈りを込めて我が子を神に献げ、大切に育てました。しかし彼は30歳になると「神の国運動」を始めて弟子をとったものの、3年後には裏切られて十字架刑で殺されました。マリアはシメオンの言葉を思い出しました。献げた我が子は、自分の思い描いた幸せではなく、人の苦しみを引き受けて死ぬという犠牲の初子になった・・・。一度献げたのだから、とマリアは自分の思いを捨て、神の思いを受け入れました。そして復活の命に輝く神である息子に出会ったのです。
主イエスさまも、祈りを込めてご自分を神に献げました。しかし献げた自分の命は自分に都合の良い用いられ方ではなく、十字架の上で刺し貫かれ、人々の罪を償うためでした。しかし一度献げたのだから、とゲッセマネの園で主はみ心を受け入れ、死んでいかれました。だからこそ、その生涯の上に神が働き、復活したのです。
信仰生活は聖布の奉献のようです。私たちは祈りを込めて自分を献げます。しかしその献げた自分は、神さまが自由に用いてご自分を現されます。それは、ときに思い描いた幸せではなく、「剣で心を刺し貫かれる」ような出来事のこともあります。しかし一度献げた人生です。取り下げることなく、迷いなく、神さまに使ってもらいましょう。そこに幸せがあります。主が現れます。
献げた人生に神がご自分を現し、それを感謝する幸せ。聖歌325番です。♪み手の中で、すべては変わる感謝に、わがゆく道に、現したまえ、あなたのみ手の業を♪