2025年1月26日 顕現後第3主日
ダヴィンチ「最後の晩餐」ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドミニコ会修道院の食堂の壁画.1495-1497. |
私たちは目で世界を見ます。映像、文字、顔と感情。そして頭で理解し、手と足で行動します。しかしだからと言って目と頭が、手と足を馬鹿にして「必要ない」と言えるわけがありません。行動するためには、より劣っているまたは弱いと見える部分が、かえって必要です。
教会は体のようなものだ、とパウロは分裂のあるコリント教会に説きました。富裕層でおごり高ぶる信徒と、貧困層で肩身の狭い信徒に分裂していたのです。キリストはすべての部分を、いや、より劣っていて弱く見える信徒をかえって必要としていると。
この「より弱いものへの愛」はパウロが主イエスさまから受けた心です。主イエスさまは、教会から見れば弱いどころか悪である迫害者の自分を憐み、愛し、福音の器として選ばれた。だから一見弱く悪く劣っているような存在こそが、主イエスの愛を伝える大切な部分なのだと。愛を伝えるために、より弱い部分が必要なのです。
イエスさまが愛を向けたのもまた「貧しい人、捕われている人、目の見えない人、圧迫されている人」でした。(ルカ4:18) 神の愛はまず弱いものへと注がれるものです。それは私たちです。
そして教会に色んな人がいるのは「互いに配慮するため」(12:25)。愛し合うためです。教会は愛の学校です。自分より劣っていて弱く見える人を愛することで、より一層キリストの体らしくなります。より神に与かり、より人間らしい人間になっていきます。そして人の苦しみを苦しみ、人の喜びを喜ぶことのできる人間になるのです。
主の食卓はひとつだけです。共に配慮しあい、主を賛美しましょう。「私たちは多くていも、一つの体です。」