2024年12月8日 降臨節第2主日 聖餐式
エジプトの奴隷の家から導き出されて以来ずっと神の民は、主を愛さず、礼拝せず、律法を守らず、預言者の声を無視して社会的弱者を虐げていました。
その罪の結果、イエスさまの600年ほど前、国はバビロニア帝国に滅ぼされ、神殿も宝物も破壊され、奪われ、殺され、残された者は荒れ野の果ての異教徒の都バビロンに強制連行されていきました。そこで「もう赦されない。神に見放された」と思い、悔いていました。
しかし50年経ったとき、預言者バビロンのイザヤは叫びました。「罪は赦された、主が私たちを連れ帰ってくださる!」なんという喜びの知らせか。もう赦してもらえないと思っていた罪が赦され、故郷に帰れるのです。そのイメージが荒れ野、砂漠に真っすぐ通る道です。「その道筋をまっすぐにせよ。」
卑近な例ですが家族でも同じです。過ちを犯したとき「もう赦されない」と勝手に思い込まず、赦しがあると信じて謝れば、相手は赦してくれる(かもしれない)のです。心を低めて「ごめん」と言えば「もういいよ」と。そして赦しの道が驕り高ぶった心にまっすぐ通り、以前の親密さに連れ帰ってくれるのです。
「罪の赦し…主の道筋を整えその道筋をまっすぐにせよ。」洗礼者ヨハネの宣言を聞いた人々は、まっすぐに罪の赦しを信じて喜び、暗い心に赦しの道を通しました。
罪の赦しは信じるものです。イエスの赦しはバビロンからの解放よりもっと根本的な、罪からの解放であり、死から命への帰還です。
これを信じる根拠が十字架です。私たちを赦すために人となり、私たちの罪を負って十字架で死に、罪を消し始めた史実です。
この史実を基にして赦されないような罪の赦しを確信し、疑わず、まっすぐに赦しの道を心の荒れ野に走らせましょう。自己肯定感の低い「谷」は神の愛で埋めて頂き、驕り高ぶる「山と丘」はすべて低くめ、歪んだ心は「真っ直ぐ」にし、邪魔なエゴは平らにし、赦しの道、喜びの道に貫いてもらいましょう。赦しの主に連れ帰ってもらいましょう。
そして今度は自分も人を赦して、その人の赦しの道になるのです。驕り高ぶりを低め、心をまっすぐにし、喜びの道になるのです。「もういいよ。」「神さまはあなたを赦された。」そこを赦しの主が走り、神へと連れ帰って下さいます。
赦しの御血を飲み、赦されえない罪の赦しを信じ、心に赦しの道を通し、喜ぼう。「罪の赦しを得させるようにと、あなたがたのために与える私の新しい契約の血」。