2024年12月1日 降臨節第1主日(C年) 聖餐式
Fra Angelico - The Last Judgement (Winged Altar) |
私は「最後の審判」が嫌いでした。「我々が悪に審判を下す」と神になり代わる人間がいたり、審かれる側に立って考えると「自分はそんなに清くない、きっと審かれて罰を受ける」と思うからです。
しかし戦争や虐殺や弾圧で罪のない市民が殺される事実、また、命を何とも思わない残虐な殺人や虐待、または残酷な病と死の力を思うとき、最後の審判を待ち望む気持ちが分かり始めます。「もし正義である神さまがいるなら、こんな悪がそのままで許されていいはずがない」と思うからです。
「人の子が雲に乗って来る」とは(筋斗雲に乗る孫悟空ではありません)審き主が来るという意味です。雲は、神の民をファラオの奴隷から導き出した「主の雲の柱」です。(出13:21)ですから審きとは悪からの解放、また救いなのです。
ダニエル書の最後の審判では「日の老いたる者」が王座に着き、人の子が雲に乗って来て即位し、支配権が委ねられ、民を圧迫する悪しき者たちが審かれます。「神の愛による支配、み国」が来ます。
再臨のイエスさまはこの「人の子」です。そして主を受け入れる人は「頭を上げて、解放される。」(21:28) (だからこその福音伝道ですが、他人の運命を詮索するのは罪です。神のみぞ知る、です。)
神にとっては一瞬にすぎない億年兆年が経つと、全ての悪は審かれて滅ぼされます。そして私たちは解放されます。救われます。その初めがクリスマスの受肉であり、その頂点が十字架と復活と昇天であり、その完成が終わりの日です。
終わりがある、審きが来る。そう信じるからこそ、この世の苦しみに耐え、希望をもって悪に対抗し、神の愛を宣べ伝えられるのです。
例えば平和。国際関係でも人間関係でも同じです。ガザでも教会内でも家族内でも同じです。審きの日、悪は滅ぼされます。戦争は滅び、完全な平和が実現します。だからこそ今ここで私たちは苦しむとも諦めず、平和を祈り、小さな平和を実践します。審きの日にはみ国が来ます。その終わりの日の平和を見つめて待ち望み、世界から逃げず、世界を変えるのです。
♪キリストは、ふたたび、来られます♪歌ってパンを裂くとき、再臨のイエスさまの声を聴きましょう。
「私は必ず審きに来る。だからあなたは待ちなさい。祈りと行いをもって、私の来るのを待ちなさい。」