2024年10月20降臨後第22主日(特24) 聖餐式
マキシミリアノ・マリア・コルベ 司祭(1894年1月8日 - 1941年8月14日)
イエスさまは私たちの「身代金」として、私たちの身代わりとなって死なれました。
身代金とは奴隷に売られた親族を買い戻すお金です。愛のお金です。この意味で「あがない主」の漢字は正しくは「贖い」ではなく「購い」です。代わりの何かを支払って、奴隷を解放するのです。
この意味で、出エジプトでは、民は奴隷状態から購い出されました。身代金は、屠ってその血を家々の鴨居に塗った「過越しの子羊」でした。また、バビロンからの帰還でもまた民は捕囚から購い出されました。身代金は「主の僕」と呼ばれて身代りに苦しむ、無名の人物または民全体の象徴でした。
そしてイエス様が無実で死んだとき、民は「主の僕」を思い出しました。私たちは罪と死に支配されていますが、主イエスさまは私たちの身代わりになってその力を受け、身代金としてご自分の命を払い、私たちを購い出されました。(私はとくに病気で暗い心になるとき、身代わりを信じます) 私たちは未だ解放されていませんが、主の復活によって解放は既に始まり、終わりの時には完全に自由になります。
マキシミリアノ・コルベ神父という人がいます。9歳の時に殉教を志しました。彼はアウシュヴィッツ収容所に捉えられました。ある日、脱走に対する連帯責任が問われ、餓死室に送られる10人が選ばれます。そのときガヨヴニチェクという男が「あぁ子供に会いたい」と泣き出しました。すると神父は進み出たのです。「私はこの人の身代わりになりたい。」奇跡的にもその願いが許され、代わりに餓死室へと送られました。飢えと渇きで狂死する監獄が、聖歌と祈りが響く礼拝堂になりました。その後、死に至る注射で殉教し、天へ上りました。
コルベ神父が身代わりになるほどに他人を愛せたのは、やはりイエスさまの身代わりの愛を受けていたからだと思います。だからイエスさまと同じように身代わりになって死に、自分の命を愛のために捧げ、殉教し、神の愛を現しました。人間の愛の可能性を現しました。
「あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血」と聞くとき、身代わりの愛を聴きましょう。「わたしはあなたの身代わりになる程、あなたを愛している。」
もちろん私たちは聖人ではありません。しかし小さな日常生活で人を思いやり、「この人のしんどさを少しでも担おう」とするとき、その愛は同じ方向を向いています。人の身代わりになる愛の方向です。