捨てる道 「それから私に従いなさい」 マルコ福音書7・21

2024/10/18

財産

 2024年10月13降臨後第21主日(特23)聖餐式

「悲しんで去る金持ち」ジェムス・ティソ,Brooklyn Museum.

 「持ち物を売り払って施し、私に従え」とイエスさまは言います。しかし「お金の何が悪いのですか」と言いたくなります。人によって違うでしょうが、多くない収入の中から何とか生活費と教育費と老後の備えを捻出しなくてはなりません。

 しかしここでイエスさまは財産自体ではなく、それらへの執着が悪い、それらを心の拠り所とすることが悪い、と言われています。

ただ「捨てよ」と言っているのではなく「私に従う」道として「財産を捨てなさい」と言っています。捨てたかどうか、ではなく、イエスさまに従うクリスチャンの道を歩むものとして、財産への執着からじゆう になりなさい、と言われるのです。心の拠り所は「私だ」と言われているのです。その表れとして財産を売って貧しい人々に施すのです。

 私たち先進国の教会は、発展途上国の教会に比べて財産があります。しかし教勢は衰え、熱い信仰は冷め、福音伝道も熱心だとは言えません。それは神以外の財産かかを心の拠り所にしているからかもしれません。

 20年近く前に私が訪問したミャンマー北部では、貧しい家に住む方々が熱い信仰を実践しておられました。迫害を恐れず玄関に白い十字架を掲げ、礼拝に集まり、互いを愛し、客人をもてなしてくださいました。ご馳走は、自分の池で長い時間をかけて育てた鯉一匹でした。その鯉を惜しむことなく葉っぱにくるんで蒸して、私の前に出してくださいました。彼らは財産ではなくて、神ご自身を心の拠り所としているのだと感じました。

 イエスさまは「持ち物を捨てて施してからご自分に付いて来い」と言われました。そしてご自身が、父のみを心の拠り所として、その道を行かれました。それは財産どころか自分の命をも捨てて与える十字架の道でした。聖餐のように自分の命を分かち合う道でした。執着を捨てる自由への道、そしてその自由で神と人を愛する道です。

 しかし何を言ってもイエス様の戒めは薄められません。「財産を売って施して、私に従いなさい。」

生きる道として、私たちはこの戒めの前に立たされています。さぁ、あなたはどうしますか。あぁ、私はどうしようか。


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聖公会京都教区の司祭です。大津聖マリア教会勤務です。うつ当事者として自助グループ「マ・カタリーナ」の世話人もしています。リンクをご覧ください。

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