Genesis : Creation of Eve; marble relief on the left pier of the façade of the cathedral; Orvieto, Italy |
イエスさまの論敵は罠を仕掛けました。「離婚は許されているか否か。」「許されている」と答えれば神の声を無視することになり(マラキ2:16)、「許されていない」と言えばモーセの許可(申24:1)を覆すことになります。
イエスさまはしかし、申命記の「離婚の許可」を神のみ心に従わない人の心の頑なさに由来する非本来的なものだとしました。神ご自身の本来の意図は創世記にある、と。
創世記には人と人がパートナーとして共に生きる幸せが描かれています。「人が独りで生きるは良くない」「ついにこれこそ私の骨の骨、肉の肉」「二人は一体となる。」
ここでは結婚が人の生き方の指針にまで高められています。人は人に誠実を尽くし、愛し合い、赦し合い、共に生きようとするとき初めて人間らしくなる。結婚しているように人と共に生きなさいと。
教会の信徒同士でも、本来は結婚相手のように、共に生きられればいいのでしょう。「あんな人にそんなことできない」と思うのが現実ですが、神には理想があります。
それに結婚相手にだって「あんな奴!」と思うのですから。夫婦は喧嘩しながら、忍耐し合いながら、赦し合いながら、喜びも悲しみも共にしていく関係なのです。
結婚しているように一体となって生きる。イエスさまの内に、頑なな古い時代は終わり、愛が支配する新しい時代が始まりました。主は自ら父と一体となって生き、罪を担われました。そして復活して私たちと一体となり、共に生きる道を開かれました。
聖餐の内に主の声を聞きましょう。「私はあなたと一体となって生きる。人と一体になって生きる。この幸せがあなたにもあるように。」