2024年10月27降臨後第23主日(特25) 聖餐式
ある日、いつもように上着を広げて物乞いをしていたとき、ダビデの血筋の救い主が来たと知ります。彼は持てる全ての力で自由への願いを叫びました。「エレイソン! 憐みをお与えください!」多くの人に押しのけられ、蹴られ、口をふさがれても、自由を求めました。チャンスは今しかない。「エレイソン!」
イエスさまはその声を聞き、彼を呼びました。すると彼は喜んで全財産の入った外套を捨て、復活するように躍り上がり、イエスさまのもとへ来ました。そして願ったのは弟子らの高慢な願い、「神の右と左に座る」ことではなく(37)、ただ「見えるようになる」ことでした。障害に支配されない本来の自由な姿、神の似姿に戻りたい、と。盲目の不自由から、自由になりたいと。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」願いは成就した。目は癒され、不自由から自由なりました。そして開かれた目で見たのは、命を与えるために十字架へと向かうイエスさまでした。バルティマイは自分勝手な方角にではなく、イエスさまに付いていきました。自由への願いを満たしてくださったお方に感謝し、惹きつけられ、魅了され、付いていきました。
私は自由だと思っていますが、神との関係では私は不自由です。執着によって心の目が不自由です。「誰が一番偉いか」という名誉欲に(9:34)、人を排斥する独占欲に(38)、金銭欲に(10:22)、神の栄光を欲しがる「原罪」に(37)、そして暗い心に縛られています。不自由なく、自由に神を見続けていたい。神と自分と人を愛していたい。
イエスさまが自由にしてくだいます。イエスさまは父の愛に従いました。そして十字架で自分が縛られることで、私たちを悪の束縛から解き放ち、心の目を開き、自由にしてくださいました。
ただし私たちも心の目で、愛の十字架に向かうイエスさまの背中を見ます。そしてイエスさまに付いていく。その先に十字架があっても付いていく。それが弟子になる自由です。従うことを選ぶ、真の自由です。イエスさまの後に付いていく時、自分勝手な執着から本当に自由になれるのです。イエスさまの与える自由は従う自由です。
聖餐式で私たちを「苦しみから解き放つ」主の声を聞き取ろう。
「私は心の目を開き、あなたは自由になり、私を見た。どうする。私に付いて来るか、来ないか。」