肉体の近さの喜び 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」 ヨハネ福音書6章56節

2024/08/16

受肉 聖餐式 肉体

 2024年8月1 8日聖霊降臨後第13主日(特15)

幼児陪餐
これは聖餐についての教えですが、「わたしの肉を食べ、血を飲む」という表現はドキリとします。もちろん文字通りのこの世的な肉を食べ、血を飲めと言うのではありません。その点では「霊的」に食べるのです。

しかし、だからといってパンを食べてぶどう酒を飲むのはただ「イエスさまを思い出しなさい」ということではありません。パンとぶどう酒は本当にそこにおられるイエスさまの存在です。肉体です。肉です。

聖書の「肉」には良い意味と悪い意味があります。パウロでは悪い意味で「この世の罪と死の力」です。しかしヨハネ福音書では良い意味で「人間に与えられた、神を表す道具、しるし、器」です。

神は人間が肉体を持つ存在であることを大切にして、愛して、自ら「肉となって私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)受肉された。私たちと同じ肉体を持ち、私たちと一体になり、しかも罪と死をその肉体に受けて死なれた。そして復活して、肉体を含む新しい命をくださるのです。キリストの救いは肉体を通して成し遂げられ、伝えられます。

これは喜びです。神は遠い「天国」にいるのではなく、私たちの肉体の近さに来て下さる。居て下さる。一つになって下さる。肉体を通してキリストは私たちの内に宿り、私たちはキリストの内にいます。

例えるなら赤ちゃんへのスキンシップのようなものです。抱っこして、口づけして、オムツを替えて、「たかいたかい」して、ご飯を口に入れて・・・私たちの多くは親にそうしてもらって愛を感じたはずです。神さまも肉体を通して、その愛を人間に感じさせてあげたいのです。

肉体の近さの喜び、身体性の神秘、これが現れるのが聖餐です。パンとブドウ酒を口で頂く近さに神は来られる。そして間接的に、そのパンとぶどう酒が消化されて変わっていく私たちの肉体の隅々に至るまで、神は近くにいてくださる。

だからこそ私たちも、人をその体を通して愛したいものです。微笑み、体を気遣い、行動をもって、神さまの愛を伝えたいものです。

聖餐のうちに、私たちに最も近い神の声を聞しょう。「わたしは近くにいる。あなたの指、口、喉、お腹、体の隅々に渡るまで近くに。」

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聖公会京都教区の司祭です。大津聖マリア教会勤務です。うつ当事者として自助グループ「マ・カタリーナ」の世話人もしています。リンクをご覧ください。

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