神は飢えを満たす存在です。出エジプトの荒れ野では天のマナで民を養われました。「5千人の養い」ではイエスさまが飢えた人々を満腹にされました。爆弾ではなくて命を降らせて養う存在です。原爆で焼かれた人たちはどれだけ命に飢えたことか。どれだけ「生きたい」と願われたことか。私たちは「命を養う」神の思いに従うのです。
私たち人間は皆それぞれ、幸せに飢える存在です。本当の幸せとは何でしょうか。金銭的な安心、健康、承認、愛の人間関係、美しい景色や感動。それらの恵みは、飢えを満たす神さまの存在を示しています。だから神さまとの関係なしには、恵みはただの「もの」です。
人の心は「恵み」という「もの」に留まっていてその与え主なる神に達しない時、本当の飢えは満たされません。どれだけ恵まれていても、「もっと欲しい、ずっと欲しい」という欲望や、虚しさが襲います。
それは、私自身の中にもありますが、「感動中毒」ならぬ「恵み中毒」、「恵みの消費主義」です。それではいつまでたっても満たされないのです。
それは人間は本来、恵みを通して、神ご自身に飢えるように造られているからです。聖アウグスティヌス(†430)は言いました。「主よ、あなたの内に安らぐまでわたしは休まりません。」神ご自身に満たされるまではどんなに恵まれていても本当の飢えは満たされない。神ご自身の存在が本当の幸せなのです。
だから主イエスさまは「わたしが、命のパンだ」と言われました。(35節) 「命のパン」は恵みという「もの」ではなくイエスさまご自身です。人格です。生きた交わりです。私たちと同じ人間となって苦しみを受けて復活したお方が、私たちの心の内にいて私たちと交わってくださる。神ご自身の存在が私たちの本当の飢えを満たしてくださる。神もまた私たちに、恵みにだけではなく、ご自身に飢え渇いて欲しいのです。
それはちょうど大切な人との関係にあって、相手から得た何かの「もの」が幸せなのではなく、相手との関係、相手の存在、人格そのものが幸せであるようなものです。結婚指輪のようなものです。
イエスさまもまた、ただただ父に飢え渇きました。そして父の存在に満たされて十字架へと向かわれました。父に満たされていたならば、一切の他の恵みはいらなかったのです。ただ心のうちに父がいてくれること、それがイエスさまにとっての本当の幸せなのです。そして十字架で言われました。「渇く」。
聖餐で、私たちの飢えを満たす神さまのご人格と交わりましょう。
「あなたの飢えはわたしが満たす。だからわたしに飢え渇きなさい。わたしがあなたを満たすから。」