「ヤイロのむすめ」Kees de Kort, 日本聖書協会, 1976年. |
もし自分の娘が、12歳の若さで命尽きようとしているなら…。どれだけ悲しいでしょうか。どれだけ必死になるでしょうか。
ヤイロは会堂長として街の有力者であり、権力も財力もありました。そんなヤイロが田舎から来た癒し人の前に、なんの威厳もなくひれ伏して願うのです。「どうか娘に手を置いて、癒してください!」と。
その必死さに応えてイエスさまは家に向かいます。しかしその途上、ほかの人を癒している間に知らせが来ます。「娘さんは死にました。」ヤイロは悔しがり、恨み、絶望し、悲しみの淵に落ちました。もう何の望みもない。死んでしまったのだから。
しかしイエスさまはここでヤイロに言います。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」娘が死んでしまった今、何を信じろと言うのでしょうか。良い葬式をすると言うのか、それとも、もう一人の娘を授けるというのか。信じる内容がわかりません。理解を超えています。
ただ彼は、悲しみはそのままにして、自分の限界を超えて、イエスさまに頼りました。信仰とは、限界を越えることです。感情と理解の限界をこえて、主イエスさまに頼ることです。
そうすると主は「娘はただ眠っているだけだ」と言い「タリタクム」と娘の手をとって生き返らせたのです。限界を超えて現れたのは復活の命でした。
主は悲しむヤイロに「悲しむな」とは言いませんでした。「恐れることはない、ただ信じなさい」と言いました。悲しみはそのままにして、理解できない未来もそのままにして、それでも限界を超えてご自分を信じなさい。限界を超えて、復活の命へと導くから、と。
Aさんの晩年は愛する息子さんに先立たれ、死別の悲しみにありました。深い信仰者でしたが、限界にありました。どれだけ辛かったか。ご主人によりますと、最期も悲しみのうちに亡くなられた、と言います。他の人も「かわいそうだ」と言います。でも私は思います。主はその限界でAさんに呼びかけられたのではないか。「恐れることはない、ただ信じなさい。」そしてAさんは悲しんだまま、それでも限界を超えて主に頼って生活しておられた。そうして限界を超えて信じて死んでいかれた。そして死を越える復活の命へと導かれた。愛する息子さんたちとの再会へと導かれた。私はそう信じています。
悲しみはそのままにして、受け入れて、それでも限界を超えて主を信じる。そうすれば、想像をはるかに超えて、復活の命に導かれていく。
思えばイエスさまこそ、見捨てられて拷問されて殺されるという悲しみの限界にあって、父に頼りました。この杯を取り除いてください、しかしあなたのみこころがなりますように、と。そして限界をこえて復活させられたのです。悲しみの限界を知っているイエスさまが呼びかけておられるのです。
悲しみの限界での「ただ信じなさい。」こう言われる方を信頼しましょう。悲しんだままでいい。復活の主イエスさまに、自分を任せましょう。
私自身、実際に自分の子が死んでしまったら、そうできるかどうか、、、。でもだからこそ、その時には、復活のイエスさまがこう呼びかけておられることを忘れずにいたいと思います。
「恐れることはない。ただ私を信じなさい。悲しんだままでいい。限界を超えて私に頼りなさい。あとは私が復活の命まで導くから。」