2024年5月26日 三位一体主日 聖餐式https://open.spotify.com/episode/5FW3yTpHDfu6JmYmBvv8sU?si=UbsdnvK_Sy2-cCs9DkEgbg
「三位一体」Nicoletto Semitecolo. 1370. パドヴァ,イタリア. |
年老いたニコデモは「新しく生まれ変わる」世界に招かれました。それは神さまが、ご自分の命を与えて愛する世界です。神がご自分の命を与えるほどに愛されている自分、愛されている隣人、愛されている社会。これを信じて生きるかどうか、それはその人の人生を全く変えるものです。
私たちが祈る神さまは創造主です。私たちを創り、愛し、すべてを与えられる存在です。命を、健康を、愛情と友情を、死を超える命を与えられます。与えて与えて永遠に与え続けられる愛の存在です。
私たちは誰に、どんなときに「与えたい」と思うでしょうか。または誰になら「自分の命をすら与えたい」と思うでしょうか。親友に、信徒の兄弟姉妹に、伴侶に、子供に…。この「自分を与えたい」という愛の源が神です。神は愛です。
自分を与える愛の頂点、それが十字架です。神はその愛を受け取らずに死にゆく人間を見捨てません。父なる神は掛け替えのない愛し子の命を十字架で与えたいと願われました。そして子なる神イエスさまは、聖霊の働きによって、「自分の命を与えたい」という父の願いに全てを委ねて死なれました。
父と子と聖霊は一体です。だから十字架は「三位一体の神がご自身の命を与えた」出来事です。表紙絵はこれを表しています。イエスさまの十字架のうちに、神さまは私たちの罪と死と交換に、ご自分の命を与えてくださった。神さまは私たちを、死にゆく存在ではなく、ご自分の命で生かしたいのです。
そして聖霊の働きによってこれを信じる人には、新しい命、「永遠の命」が与えらます。それは永遠に自らを与え続ける愛です。「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)。つまり自分に愛が働くのです。
私たちは不完全ですが、この愛を信じるとき、自分を与える生き方が始まります。無理はせず、できる範囲でいい。「命を与える」なんてできない。それでも、自分の時間を与え、手間ひまを与え、赦しを与え、心を与え、笑顔を与え、涙を与える。「この人に自分を与えてもいい」と思えることは大きな喜びです。神さまの愛に触れることです。
聖餐で、自らの命を与える三位一体の神の声を聞き取りましょう。
「わたしはあなたに自分を与える。あなたがどんな人でも関係ない。自分与えて与えて、与え続ける。これがわたしの喜びだ。」