James Tissit. Last Sermon Of Our Lord. Brooklyn Museum.
正直なところ聖書のなかとは違い、イエスさまは目に見えないし触れることができません。どのように「共に」いてくださるのでしょうか。
聖霊降臨を控え、イエスさまの遺言が約束します。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:15)。この「弁護者」というのが聖霊の名です。聖霊はイエスさまの弁護人、代理人です。聖霊はイエスさまの存在を代弁し、その代わりになり、時と場所と形を超えて私たち弟子たちの内にいて、イエスさまを存在させます。純粋な愛そのものとして存在させます。
イエスさまは本当に肉体を持って復活されました。そして使徒たちに現れた後に「昇天」しました。つまりその体は今、目に見えない神の領域にあります。それ以降、直接に、復活直後のように、イエスさまの体を見た人はいません。
私たちはイエスさまが肉体的に共にいないことを受け容れて初めて、霊的に私たちの近くに、私たちの内に、存在するのを知ります。
これはちょうど、愛した人の肉体的な不在を受け容れて初めて、その人が心に居始めるようなものです。(イエスさまは体ごと生きておられる点は違うのですが。)
イエスさまの存在、それは愛そのものです。だからイエスさまを愛し、愛の戒めを行う人の内には肉体を超える弁護者がいつでもどこでも共にいて、イエスさまの存在を有らしめ、体験させ、悟らせてくださいます。愛が存在を呼びます。
聖霊は私たちの地上の身近な日常生活に働いて、イエスさまの存在をもたらします。目覚めた時、食べる時、働く時、話す時、休む時、祈る時。神さま、イエスさまなんていない、という不在のなかで、自分に最も近い魂の領域で、その存在と愛を引き起こされます。
聖霊が働く生活の中心、それが聖餐です。パンとワインを通して聖霊が働いて、私たちのうちに愛するイエスさまが存在し始めます。
「いつでもどこでもあなたの中で働く聖霊。それが私の存在だよ。」