ピーテル・ブリューゲル. 良き羊飼い. 1616年.ベルギー王立美術館 |
しかし飼い主本人は、羊を自分自身のように大切にしています。ナタンという預言者の譬え話に、貧しい男とその全財産である一匹の子羊の話があります。子羊は男の乏しいパンを共に食べ、男の懐で眠り、「さながら娘のようであった」(サム下12:3)。飼い主にとって羊は、自分の子どもと同じほどに掛け替えのない存在なのです。
日本人には羊や羊飼いは身近ではありませんが、親子の関係を思えばよく分かります。愛する存在は守らねばならない。だから凶暴な狼が襲ってきも動かない。逃げない。どれだけ怖くても、狼を睨みつけて羊を守ります。たとえ噛みつかれて傷ついて殺されても、羊を守ります。犯罪者に襲われた時など、自分の子供ならそうします。
ここで狼とは罪の力のことです。私たちを神の愛から「奪いまた追い散らす」強い力です。(12節) 心を内側から喰らう闇です。神さまは体を張って私たちの代わりにこの力を受け、私たちを守られました。神は罪と闘う存在であり、十字架は神さまが受けた愛の傷です。
しかし十字架で殺された時、弟子たちは分かりませんでした。なぜ先生は逃げなかったのか。愚かなことだ。悲しい結末だ。
しかし復活したイエスさまに再会し、その愛を悟ります。「先生が殺されたのは愚かで弱かったからではない。私たちに代わって罪と戦い、私たちを救うために、罪と共に死なれた。死ぬほどまでに、私たちは神さまに愛されている」と。
「彼が担ったのは私たちの病い、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし私たちは思っていた。彼は病いに冒され、神に打たれて苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)これは十字架の苦しみの内から愛が現れ、それを悟る話なのです。あれは神さまの愛だったのだ、と。
聖餐では、私たちを守るために神さまが受けた傷から、その愛を飲ませてもらいます。どれだけ私たは神さまに愛されているか。
「私はあなたを守った。子羊のように子どものように死んで守った。安心しなさい。私はあなたを愛している。そしてあなたを必ず守る。」