2024年3月3日大斎節第3主日
El Greco (Domenikos Theotokopoulos).キリストによる宮清め. before 1570. National Gallery of Art. |
この場面をたとえるなら、急に若い神学生が礼拝に来て献金袋の中身をばら撒き、牧師を引きずり下ろし、会衆を礼拝堂から追い出し、叫ぶようなものです。「こんなの本当の礼拝じゃない」。十分な破門(または逮捕)の理由になります。
イエスさまはそのようにして言われました。「この神殿を壊せ、三日で建て直す」。弟子たちはのちに、これは十字架と復活のことで、建て直す神殿とはイエスさまの体のことだったと、あとで悟ります。
神殿や礼拝とは本来、神さまの存在が満ちるところです。十戒も、聖書も説教も、洗礼も聖餐も神さまの臨在を指し示すものです。「こう生きるなかで神は現れるよ。神の存在はこのようなものだよ」と。
しかしパウロが嘆く「望まないことをしてしまう」罪の力によって、私たちは神さまを忘れます。(ロマ7:20) 礼拝は退屈に見え、信仰よりも金銭価値に縛られ、イエスさまを都合よく飼い慣らしてしまいます。
そんな神さま以外の価値に基づく偽の礼拝を「壊せ」とイエスさまは命じられます。そして実際にご自分の体に悪を集めて十字架で死に、偽の礼拝を滅ぼされました。そして復活して言われます。「わたしこそ本当の神殿だ。神の存在が充満する場所だ。わたしに結ばれて聖霊の内に、父を賛美しよう」と。
本当の礼拝、それは「復活の主は今ここにおられる」と信じて主の体の一部となり、感謝と賛美を献げることです。人であるイエスさまを通して人生の喜びと悲しみを父に献げ、神であるイエスさまに出会うことで復活の命に再創造されます。
イエスさまと親しく交わり、聖霊の内に父に献げる礼拝は、私たちの心の鈍さを遥かに超える力を持っています。人生を変えます。神が私たちの間にいるのですから。
この大斎節、イエスさまと一体となって、罪と死とエゴに基づく退屈な礼拝を壊して頂きましょう。そして兄弟姉妹と共に復活の礼拝を建て直して頂きましょう。新しく創造された命が力強く宿る礼拝を。
「退屈な礼拝はわたしが壊してあげよう。そして力ある礼拝をわたしが建て直してあげる。だから今日、わたしと一体となって献げよう。復活の存在に満ちた礼拝を。」