(灰の水曜日礼拝式文、創世記 3:19)
今日は大いなる斎(ものいみ)。死を覚え、命へ帰る日の始め。
死を覚える灰は日本ではお骨あげを連想する。まさに皆、避けられない定め。
しかしクリスチャンは諸行無常の虚しさではなく、復活への旅立ちとして人を送る。神に休んで、全く新しい体に復活する。この世では命から死へ進むが、信仰者は死から命へ旅する。
まず、生まれる前は「無」だった。輪廻転生ではない。何もないところ、死、から創造主が命を与えてくたれた。無から有、死から命への誕生だ。
そして、灰の印をずっと受けて生きてきたように、何一つ私たちは創造主から受けなかったものはない。命、食、愛、成長、出会い、出産、養育、老いさえも。基本は「死と無」なのだから、全ては神の恵みである ことを覚え灰の印。
聖書では、人は元来、不死、死なない存在。しかし罪によって死ぬものに。罪と死は一つの力。この一つの力から、愛と命の一つの神に帰っていくのです。
だから私たちは、死んで復活したイエスさまによって、罪から離れて信仰と希望と愛を持つ。人間の死から、創造主への命へと旅する。聖霊の助けによって。
心にはずっと灰の印を覚えて、罪から愛/死から命へと旅立ちましょう。
ただただイエスさまを信じることで、罪と死を超える神さまの命と愛へと、入れてもらいましょう。
「わたしに付いてきなさい。苦しい死から、嬉しい命への旅路を、ずっと。」