(列王記上19章12節, 大斎前主日)
敵に命を狙われた預言者エリヤは、神の声を聞くために聖なる山、シナイ山を登りました。しかしその声は激しい風や地震や炎の中からは聞こえず、全てが終わったあとの「静かにささやく声」でした。そして愛が示され、さらなる使命が示されました。
変容での神の声もまた「静かにささやく声」だったのだと思います。ペトロたちは、死を予言されたイエスさまに従ってタボル山を登りました。そこでイエスさまが光り始めたとき、ペトロは恐れて精神力と思考力の全てを尽くしてあるゆる「自分でもどう言えば良いのか分からなかい」言葉を述べ連ねました。
そのあと、登山のあとには心が静かになるように、ペトロたちに神さまの愛の声が静かに、かすかに、聞こえたのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け」どう祈れば良いのか分からなくても、全ての心と言葉で祈り求めたあと、神さまは静かにささやくように語りかけられます。その愛によって命は肯定され使命が与えられます。
神の声は求めるときに都合よく聞こえるものではなく、私たちが求めて求めて、愚かな知恵をも尽くして「それでも聞こえなかった」と思ったあとに聞こえる、静かにささやく声です。人間の全ての行動よりも静かで深い愛の肯定と、力強い使命感です。聞こえないのは神の声が小さいからではなく、私たちの声がうるさいからなのです。
イエスさまは共におられます。私たちが神を激しく求めるときも、涙に震えるときも、怒りに燃えるときも、何も聞こえないと嘆くときも。そして愛を語りかけて導かれます。魂の深い静けさへと。「わたしと聞こう。深い愛と、強い力の静けさを。」