顕現後第5主日
私たちは愛する人が病気や死に面するとき、「元気になるなら何でもするから」と願い、祈ります。
預言者エリシャには援助してくれていた大切な婦人がいました。しかしその息子が、くも膜下出血で亡くなります。悲しむ母親を前に、エリシャは「何でもするから」と預言者の威厳を何とも思わず、うつ伏せになって子どもの体の上に自分の体を重ね、自分の口を子供の口に、その手を手に、その目を目に付けて、創り主の真似をして息を吹きかけ、手を温めて懸命に祈りました。それでもダメなら、起き上がって家の中を歩き回っては思いつく限りの言葉でぶつぶつ祈り、もう一度、覆い被さりました。そうすると神はその祈りを聴き、息子は癒され、生き返ったのです。やみくもの努力が報われたのです。
イエスさまの周りでも同じでした。みな必死です。「元気になるなら何でもするから」とシモンは熱病の姑を連れてくる。それを聞いた人々も「何でもするから」と町中の病人や悪霊に取り憑かれた人々を連れてくる。イエスさまが祈っている最中にもかかわらず、「何でもするから」と弟子たちはガリラヤ中の人を連れてきたのです。
祈りにルールはありません。恥もプライドも捨て、思いついたことは「何でもして」神さまに願うのです。どんな言葉も、どんな姿勢も、いつでもどこでも誰にでも、必死に願うのです。そうすれば神さまはその願いを必ず聴き、死に対して命の勝利を現されます。それが「み国が来る」という宣教です。
イエスさまも「父よ、何でもしますから」と私たちが死の力から癒されるために祈りました。ゲッセマネで祈りました。その条件が「他人の罪を受けて死になさい」であってもそれを受けました。何とかして私たちを癒して、救いたかったのです。
そしてその命懸けの祈りを神は聴き、復活の命を与えられました。
神さまは私たちが罪から癒されるためには「何でもする」お方です。私たちの罪を背負って死ぬことさえ厭わない、愛のお方です。
「何でもするから」と自分の命をお与えになる神さまを陪餐で頂き、神さまの手足となれますように。「あなたが癒やされるためなら何でもする。信じるためなら何でもする。だから神さまを信じてください。神さまに癒されてください」と。