2024年1月14日 顕現後第2主日
REYNOLDS, Sir Joshua.The Infant Samuel |
大預言者サムエルは神と出会ったとき正しくも「ここにいます」と答えましたが、「まだ主を知らなかったので」三度エリの元へ逃れて行きました。しかし四度目にはもう誰のもとにも走らず、語りかけられたその場から逃げず「どうぞお話ください。僕は聞いています」と答え、そうして主の呼びかけを聞きました。
観想または瞑想とは、聖書箇所を想う黙想とは違い、言葉と対象を持たず「今ここにいる」自分と神の関係に留まる祈りです。 私の場合は呼吸を意識す座禅やや歩く禅や椅子に座っての瞑想をしています。
そんな瞑想の妨げは「今ここに」いる神と自分から逃げることです。自分を無にすることが怖いのです。だから他のことを「気晴らし」に考えます。サムエルがエリの元へと逃げていった自然な反応です。
しかし本当に「神を知る」ためには、今ここにいる神と自分に留まる必要があります。「ここにいます」と。そうして初めて神を「知る」のです。
イエスさまは荒れ野や山で、夜を徹して観想されました。「気晴らし」に逃げずに向き合われました。そうすることで情けない私たち、弟子の「間に宿られ」ました。今も逃げずに共に居続けてくださいます。
神さまこそ私たちの「今」から逃げずに留まってくださるお方です。十字架の死の苦しみにも、復活の命の喜びにも、私たちの「今ここに」生きる瞬間を共にしてくださいます。
「逃げないでほしい。わたしは今、ここにいる。」