「借金を帳消しにしてやったのに」マタイ福音書第18章32節
2023年9月17日 聖霊降臨後第16主日(特定19)
クリスチャンは赦しの人。最も単純で、最も困難な道です。
自分が「赦せない人」は誰でしょうか。特にこの箇所では教会の「仲間」です。(18:28)
ただし赦すことは、なかったことにして、忘れることではありません。「もう赦した」と言いながら、忘れることができず、恨みと怒りに縛られていることがあります。抑圧さしている本音に苦しめられます。とくに相手に懺悔の気持ちがないときは、忘れることなどできません。
忘れなくていいのです。相手の犯した罪、自分の傷、そして今も続く苦しみ・・・無理に忘れようとすること自体が、更なる苦しみを産みます。忘れるのではなくそのまま受け容れるのです。そして神さまに委ねるのです。「神さま、私はあの人に傷つけられました。私はあの人が憎いです」。受け容れることが癒しの始まりです。そして委ねることが赦しと自由の始まりです。
ルーズベルト大統領の妻エレノアは、夫が重ねた不倫に対してこう言いました。「私は地獄耳ですから(すべてを知っています)、だから赦しますが、決して忘れません。」夫はもう赦す。しかしあの裏切りのことは決して忘れない。あの苦しみと怒りと復讐心は決して忘れられない。そう素直に認めて、受容れて初めて「それでも、もういい」という赦しが始まります。
赦すとは忘れることではなく、委ねることです。自分に嘘をついて忘れたふりをするのが赦しではありません。自分の心を受け入れて、神に委ねる。それが「心から兄妹を赦す」ことだと思います。(18・35)
譬えの王さまもまた、帳消しにした6000億円もの借金を決して忘れることはありません。自分の財産を削って、赦しを与えたのです。
しかし肝心の家来が帳消しにされた借金を忘れ、恐ろしい顔をして、仲間の借金を取り立てます。これが私たちの本当の顔です。そして最後には審きを受けます。
赦す側も赦された側も、その愛を忘れてはいけないのです。
神さまは私たちの裏切りの罪によって、傷つき苦しまれました。しかし、怒りと復讐をすべて委ねられました。それがイエスさまの十字架です。そして私たちは赦されました。神さまの傷つき委ねる愛に。
だから私たちは聖餐で主の苦しみを忘れず記念します。そして私たちも、忘れなくていいのです、心のすべてを受け容れて、神さまに委ねて、赦しましょう。自由になりましょう。楽になりましょう。
そしてイエスさまと共になりましょう。赦しの人に、クリスチャンに。