「どちらが父親の望み通りにしたのか」(マタイ21:31)
2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日(特定21)
゛All are welcome゛ Sieger Koder 神父. |
自意識過剰に加えて、牧師の職業病として、つい「人の目にどう映っているか」を気にしてしまいます。「みんなに好かれる先生になってね」という「呪い」の言葉に縛られて神さまの目を忘れがちです。
今日の「ぶどう園の兄弟」の譬えでは、父親が息子たちに「働いてくれ」と願います。兄は「いやだ」と拒否しますが、あとで考え直して出かけ、弟は「はい」と従うようで、実際には出かけませんでした。
ここで兄は売春婦や徴税人、弟は神殿の祭司とされています。売春婦は人の目には最低な評判です。悪人です。しかし神さまにどう見られているか、つまりどれだけ愛されているかを悟り、悔い改めます。そして神のぶどう園に入り「愛の実り」のために働き始めます。
しかし祭司らは、人の目に重んじられる礼拝には精を出しますが、神さまにどう見られているかには鈍感です。「生きているだけで神に愛されている」ことを悟ってはいません。だから神の愛に悔い改めず、愛の国に入って働きません。
人を不快にさせない。人に喜んでもらう。大切なことです。しかし究極的には「人の目にどう映っているか」より「神さまの目にどう映っているか」が大切です。そして神さまの目にわたしたちは、生きているだけでかけがえのない存在、神の子どもとして愛されているのです。
この愛を伝えるために神さまは一人の人間、ナザレのイエスとなられました。売春婦や徴税人ら「悪い人」を愛して食卓を囲みました。
しかし人の目に重んじられた祭司たちからは「悪人」とされ、弟子たちからも見捨てられて、十字架刑で殺されました。人の目には最も呪われた死に方です。しかしこの方が復活したのです。人の目には処刑される罪人でも、父なる神の目には、死人の中から復活させるほど愛している、「かけがえのない独り子」なのです。
人間は本来、人の目にどう映っていても、神さまの目にはかけがえのない存在として映っています。そして信じて子なる神に結ばれた私たちもまた神の子供となり、愛の実りのために働く人となるのです。
イエスさまが語りかけてこられます。「誰の目が気になるっていうんだ? 父があなたに目を注いでおられる。わたしをずっと見つめてくださった、無限の愛の眼差しで。」