「両方とも育つままにしておきなさい」マタイによる福音書13章30節
2023年7月23日 聖霊降臨後第8主日(特定11)
ジュリア・スタンコバ,「最後の晩餐」 2021年 |
あの人さえいなければ、と思う「魔の瞬間」があります。自分は正しい!! と思うときほどそう思います。親族でも、友人でも、教役者団でも、教会でも・・・。そんなこと考えてはいけないと思うのですが、そう思えば思うほど執着してしまいます。
ほっとするのは、イエスさまの弟子たちや、マタイ福音書を伝えた初代教会も同じだったことです。
「毒麦の譬え」は教会の譬えです。主人が良い麦を撒いた畑に、毒麦が出てきました。僕(しもべ)たちは「こんな毒麦さえなければ!」と息巻いて主人に「抜き集めましょう」と願いますが、止められます。「良い麦も一緒に抜いてしまうからやめとこう。刈り入れまで待とう。その時が来れば、あなたたちではなく、私が遣わす者に刈り取らせて、それから毒麦を束ねて焼くから。」
僕たちはイライラしています。目の前で毒麦が実っているのです。「自分なら毒麦だけを引き抜くことができます!」 しかし主人は「忍耐して刈り入れ時を待とう」と戒め続けます。いつまで忍耐しなければいけないのか。私たちは短気なのですぐ心が折れ、絶望し、諦めます。短気は人間の弱みです。
しかし最も忍耐して、苦しんで、刈り入れを待っているのは、僕たちではなく、主人です。
僕たちは毒麦に執着しますが、主人は良い麦に目を注ぎます。僕たちには見えませんが、主人には見えています。毒麦の根に絡み付いている良い麦が。だから待っています。慈しみの心で毒麦の存在を忍耐しています。もし僕たちが焦って良い麦を一本でも抜いたなら、主人はどれだけ悲しむことか。
これは十字架の忍耐です。毒麦に絡みつかれた良い麦のために、イエスさまは毒の存在をその身に受けて忍耐しておられます。そして刈り入れの日には、良い麦を喜んで収穫し、今まで忍耐してきた毒は焼き尽くされます。
だからイエスさまはユダをも晩餐の席に着くことを許されました。毒を抜かずに忍耐されました。最後までユダを慈しまれたのです。
神は慈しみ深く忍耐強い。だから私たちにも慈しみ深く忍耐強い人生と、教会生活を送るように励まされます。しかも私たちと共に苦しみ耐えながら、励ましてくださいます。喜びの刈り入れの日まで。
「あなたは焦って抜かなくていい。わたしと一緒に忍耐しよう。慈しみ深く待とう。永遠の一瞬の後に来る、喜びの刈り入れの日まで。」
ほっとするのは、イエスさまの弟子たちや、マタイ福音書を伝えた初代教会も同じだったことです。
「毒麦の譬え」は教会の譬えです。主人が良い麦を撒いた畑に、毒麦が出てきました。僕(しもべ)たちは「こんな毒麦さえなければ!」と息巻いて主人に「抜き集めましょう」と願いますが、止められます。「良い麦も一緒に抜いてしまうからやめとこう。刈り入れまで待とう。その時が来れば、あなたたちではなく、私が遣わす者に刈り取らせて、それから毒麦を束ねて焼くから。」
僕たちはイライラしています。目の前で毒麦が実っているのです。「自分なら毒麦だけを引き抜くことができます!」 しかし主人は「忍耐して刈り入れ時を待とう」と戒め続けます。いつまで忍耐しなければいけないのか。私たちは短気なのですぐ心が折れ、絶望し、諦めます。短気は人間の弱みです。
しかし最も忍耐して、苦しんで、刈り入れを待っているのは、僕たちではなく、主人です。
僕たちは毒麦に執着しますが、主人は良い麦に目を注ぎます。僕たちには見えませんが、主人には見えています。毒麦の根に絡み付いている良い麦が。だから待っています。慈しみの心で毒麦の存在を忍耐しています。もし僕たちが焦って良い麦を一本でも抜いたなら、主人はどれだけ悲しむことか。
これは十字架の忍耐です。毒麦に絡みつかれた良い麦のために、イエスさまは毒の存在をその身に受けて忍耐しておられます。そして刈り入れの日には、良い麦を喜んで収穫し、今まで忍耐してきた毒は焼き尽くされます。
だからイエスさまはユダをも晩餐の席に着くことを許されました。毒を抜かずに忍耐されました。最後までユダを慈しまれたのです。
神は慈しみ深く忍耐強い。だから私たちにも慈しみ深く忍耐強い人生と、教会生活を送るように励まされます。しかも私たちと共に苦しみ耐えながら、励ましてくださいます。喜びの刈り入れの日まで。
「あなたは焦って抜かなくていい。わたしと一緒に忍耐しよう。慈しみ深く待とう。永遠の一瞬の後に来る、喜びの刈り入れの日まで。」