「わたしを見た者は父を見たのだ」ヨハネ福音書第14章9節
2023年5月7日復活節第5主日
「穴太衆」は400年続く石垣積みのプロ集団です。自然石を積んでいく「野づら積み」の石垣は非常に水はけがよく、地震に強い。この業は「石の声に聞いて」継承するそうです。今の15代目の棟梁は謙遜しつつ「石の声は聴こえんが、じいさんの声がする」と言いわれます。つまり「私を見た者は、私のじいさんを見た」となるでしょう。
同じように「私を見た者は父を見たのだ」とイエスさまは言われました。つまり「私はただ自分の心の声に従って生きているのではない。私は『父の声』を聴いて、父と一緒に生きている。だから私を見ることは私の父を、創造主を、イスラエルの主である神を見ることだ」と。
理解の鈍いフィリポ(と私たち読者)はつい、イエスさまを一人の人間「だけ」として見てそれで終わってしまいます。しかしこの100%の人間の内に神が100%現れているのです。
貧しく生まれ、弟子をもうけ、民と連帯して共に洗礼を受け、神の愛による支配を語り、病気や障害を持つ人々を癒し、弟子たちを愛し抜いてその足を洗い、愛の戒めを残し、しかし皆に裏切られ、無実ながら人々の罪の罰を受けて殺された。この人の愛の生き様、これが「父なる神」の100%の現れです。神さまはどこか遠いところでイエスさまを見ていたのではない。この人と常に固く結ばれて十字架へ向かわれていました。
これを確信させたのがイエスさまの復活です。復活から振り返れば、イエスさまの全ては神さまの言動だと知るのです。
この神さまの愛を受けて今度は私たちが「イエスさまの声を聞き」「私を見た者はイエスさまを見たのだ」となるような祈りと愛を実践しましょう。