「私は決して信じない」 (ヨハネ福音書第20章25節)
2023年4月16日 復活節第2主日 聖餐式
The Incredulity of Saint Thomas-Caravaggio (1601-2) |
これは「トマスの疑い」の箇所の言葉です。ほかの弟子たちが復活のイエスさまに出会った日曜日、トマスはそこにいませんでした。だからトマスは憤慨して言います。「自分でイエスさまの手の傷を見て、その脇の傷に手を入れてみなければ、私は決して信じない。」
この「信じない」は、現代人が「私は神がいるとは思いません。」と冷静に言う無神論ではありません。あの時代、神の存在を疑う人は皆無でした。そうではなくトマスの疑いは熱い求道心の表れでした。「イエスさまに会いたい。他人ではなく、自分自身がイエスさまに会いたい。私は納得するまで決して妥協しない」という「求道心」です。イエスさまを追い求める心、恋い慕う心、強い憧れです。
私にも皆さんにもあると思います。「神さまを体験したい。イエスさまに会いたい。生きる意味を、生きる苦しみの意味を知りたい。復活とは何か。復活の命に触れたい」。
この求道心を神さまは「よし」とされます。そして翌日曜日(ちょうど毎日曜日の聖餐のように)今度は逆にトマスを愛して、求めて、会いに来られたのです。そして「わたしの傷を見るなり、触れるなり、何をしても良い。ただ、わたしを神だと信じる人になりなさい。」そう言って自らを差し出されました。十字架での裸の姿のように差し出されました。そこにトマスは自分の罪を受けて十字架で死んだ神さまを、自分を与えられた神さまを見たのです。
ここにトマスの求道心は成就しました。そこで即座にトマスは信じます。「私の主、私の神よ!」(20:28)。妥協しなかったからこそ、トマスは自分の体験として、復活のイエスさまのうちに神さまを見たのです。
求道心が成就した喜び。この喜びをほかの「求道者」にも体験して欲しいと、トマスは伝道旅行に出ます。そして地の果てのインドに至るまで、この喜びを伝えました。殉教に至るまで、伝え続けました。
私自身そうですが「聖書は知っている。聞き飽きた言葉ばかりで眠い」「聖餐式はいつも同じで退屈だ」。そう思うとき、私たちにはトマスが必要です。人智を超える神が「眠くて退屈」なはずがありません。他人の言葉や自分の固定概念で妥協しているだけです。神秘の神は人間の妥協を蹴散らし、本物の求道心を呼び覚まします。
聖書と聖餐を通して復活のイエスさまを心から求めましょう。固定概念に妥協せずに求めましょう。そうすれば神さまは必ず私たちの求道心を成就してくださいます。イエスさまと必ず会うことができます。それはイエスさまご自身が私たちを追い求めて、今もここにきておられるからです。