「不敬虔な者のために死んでくださった」ロマ書5:6
「キリストへの嘆き」ソドマ作, 1553年ごろ, ソウマヤ美術館, メキシコ |
いやいや、私は敬虔なクリスチャンではないんです…」とよく言います。しかしパウロは断言します。「キリストは、不敬虔な者のために死んでくださった。これが神の愛だ」と。
「神さまを信じれば救われる」ともよく聞きますし、それはある意味、真実です。ですが不敬虔でも、信じていなくても、不信心でも、神さまは私たちのために死に、命を与えられるのです。神さまの愛は私たちの不敬虔を超えるほど強いのです。
イエスさまの内に神さまは、不敬虔の悲しい結果を肩代わりしてくださいました。命の与え主である神さまを信じないと、人は死にます。アダムとイブは不敬虔にも神になろうとして、死にゆく定めとなりました。イスラエルの民もまた、不敬虔にも主なる神を裏切って他の神々に走り国は滅び、異国の捕囚となりました。
それでも神さまは人類を、イスラエルの民を、地上の全民族を愛しておられました。そして「死」という不敬虔の悲しい結果を自ら引き受け、十字架で死なれました。神さまは不敬虔の炎を自らの胸の内で抱きしめ、消し去りました。主の十字架はこの大火傷の苦しみです。
伝道とは「信じなさい」と信仰を押し付けることではありません。「今は信じていなくてもいい。不敬虔で、不道徳で、虚しい心でもいい。だってその結果を神さまは肩代わりして死んでくださった。そして新しい命を与えてくださるんだから」。この事実を思いと言葉と行いによって伝えることです。
神さまは私たちの不敬虔を受け取って死に、命を与えられます。不敬虔さを嘆くたび、神さまが肩代わりしてくださった愛の事実に感謝しましょう。