「わたしが復活であり、命である」ヨハネ福音書第11章25節
2023年3月26日 大斎節第5主日(A年)
William Blake.”The Raising of Lazarus.” 1800. Aberdeen Art Gallery, Scotland
何度復活日の礼拝に出ても、愛する人や自分自身の死に直面するとき、信仰が問われます。
ヨハネ福音書第11章の「ラザロの復活」の物語のなかで、マルタとマリアの姉妹(そして読者の私たち)は、死への諦めと不信仰から、復活信仰へと導かれていきます。
まず苛立ち。「なぜ救い主はまだ来てくれないのか。なぜ二日間も止まったままなのか」。(11:6)
そして直接ぶつける怒り。「もっと早く来てくれていたら、死なずに済んだのに!」。愛する人が死んでしまったとき、私たちも怒ります。「なぜ、この人にかぎって!」
そして無関心。「兄弟は復活する」と言われて答えます。「それは遠い死後の、終わりの日のこと。今の私と、死んだ弟には関係ない」。(11:24) 正直、葬送式で言われる「復活」が遠く感じられ、今の悲しむ自分には何の慰めにならないときがあります。
そして「人格の無視」。「わたしは復活であり、命である」。(11:25) つまり「わたしの人格そのものが復活の命だ」とイエスさまは言われるのに「あなたは神の子だとは信じていますが・・・。」と目の前のお方の人格を「素通り」して、うわべだけの教えを述べたのです。
それでイエスさまはご自分の人格への不信仰と無理解に対して、憤り(11:33,38)、涙を流されました。(11:35) 「なぜわたし自身の人格と存在に目を向けてくれないのだ。」
復活信仰とは、死後の状態についての知識ではありません。既に復活して、今も私たちの目の前で生きておられるイエスさまの人格だけを見つめることです。イエスさまの表現は「わたしが復活であり、命である」です。(11:25) 「わたしがあなたに与えて、そのあとはわたしから離れて、あなたが自由に使える命」ではありません。復活の命はイエスさまの人格、存在自体です。「もの」でなく人格です。そして復活信仰はこのお方への信頼です。
復活は既に始まっています。死んだ愛するあの人は、既にイエスさまの人格の中で復活し始めている。そして近くで今、生きている。
弟の甦りを見て、そしてのちにイエスさまの復活をも見たマルタとマリアは、死後の世界について知ったのでも、命を「与えられただけ」でもありません。今、生きておられるお方自身と深く結びつきました。
「愛するあの人は、既に今、わたしのなかで復活し始めている。生きている。だからあなたも、わたしと結びついて今、わたしのなかで復活し始めなさい。復活の命とは、ものではない、わたしの自身のことなのだから。」