「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」 マタイ福音書第5章8節
2023年1月29日 A年顕現節第4主日
「幸せって一体なんなんだろう。幸せになりたい…」この願いにイエスさまは神の山から教えました。「神さまを見ることこそ本当の幸せだよ。」
しかし神さまは物や景色ではありません。ただ単にこちらからあちらを眺めるる対象物ではありません。私たちを見つめ返しておられる存在です。人格です。だから幸せとは神さまと見つめあうことです。なんという喜びでしょうか。
それで思うのは食卓での私と妻です。イライラして、喧嘩して、意地悪で、誠実でないときは、顔なんて見たくありません。見ても怖い顔です(お互いに...😩) ですが互いに誠実で優しいときは、何も言わずに見つめ合い、微笑むことさえできます。神さまとそうできるなら、なんと幸せなことでしょうか。
ただ、この幸せが約束されているのは「心の清い人」です。それは誠実な人です。「心の貧しい」自分に誠実であり、謙虚に弱い自分を受け容れる人。自分にも神さまにも透明な人。そして心貧しく無限の愛である神さまを慕い求める人。素直に神さまに憧れる人です。
「それなら私はダメ。心が清くない」と諦めがちです。実際、完全に心が清く、自分の命を与えるほどに父の心に誠実であるのはイエスさまだけです。父なる神さまと見つめ合うことができるのは、イエスさまだけです。
しかし私たちは神さまに創られ、神さまによって新しく清くされた、神さまの似姿です。だからイエスさまの清さと誠実さに結ばれたなら、「イエスさまの目」を通して父なる神さまと見つめ合えます。
この神さまの内なる見つめ合い。この関係が聖霊と呼ばれる愛です。そこから全ての愛が始まり、そして天の国でこの愛が完成します。わたしたちの本質は愛の見つめ合いです。救われるということは、愛で見つめ合えるようになることです。
聖餐の中から主は私たちを見つめて言われます。「わたしを見つめておくれよ。わたしはずっとあなたを見つめているんだよ。そしてわたしと一緒に父を見つめようよ。父はずっとこちらを見つめてくださっていたんだよ。わたしはあなたが汚れて不誠実な間も、ずっとあなたを見つめていたんだよ。」