「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」 ヨハネ福音書第1章29節
2023年1月15日 顕現節第2主日(A年)
この言葉で陪餐するとき、私は自分の罪の赦しを祈ります。それは自然で善いことのはずだと思っています。
しかしこの箇所を読み返すと実は「私の罪の赦し」ではなく「世の罪を取り除く」です。主観的な赦しの感情ではなく、客観的な神さまの救いの業です。「罪を赦してもらってまたいつもの自分に戻る」のではなく「神は世界の全ての罪を取り除いてくださり、世界は変わった!」です。解放の食卓です。
この救いをもたらしたのが「神の小羊」、言い換えると「小羊としての神」つまりイエスさまです。小羊は「怒り狂う神をなだめる可哀想な供えもの」ではありません。出エジプトで奴隷の国から解放される夜に屠られた「過越の小羊」です。(出11章)
その夜、エジプト脱出のために、エジプト中の初子が死ぬことになりました。しかし小羊を屠り、その血を鴨居に塗った家の上を主は「過ぎ越し」命を守られました。この小羊の犠牲によって民はエジプトの奴隷から解放され、自由の地へと導かれました。奴隷状態を「取り除かれ」たのです。だから過越の子羊は解放のしるしなのです。
過越祭の祭りは、この神さまによる脱出と解放を祝う祭りです。旧約聖書では鴨居に血を塗り、子羊と酵母なしのパンと苦菜をたべ、旅をする服装をして、立って食べるとされています。解放を記念する食卓です。
イエスさまは殺される直前、出エジプトの解放を記念する「過越の食事」を祝い、ご自分こそが真の過越の子羊だと示されました。この世界を愛し、この世界の罪を背負って屠られ、その犠牲によって人を罪の奴隷から解放する小羊です。
陪餐する人を、神さまはご自分の愛の犠牲によって罪の奴隷から解放し、死を取り去り、新しい人間の自由に導かれます。
私たちにとって、世界が縛られている罪の奴隷とは何でしょうか。戦争、虐待、貧富の格差、環境破壊、または愛のない教会、または自分自身。神さまは奴隷状態から解放してくださいます。
だから陪餐するときは、ちっぽけな自分の赦しだけでなく、この世のすべての人から罪の奴隷が取り除かれ、解放されるように祈りましょう。
主は「父に信頼する人を苦しみから解き放つために御手を広げ、苦しみを忍び、悪魔のかせを打ち破り、新しい命に復活して勝利をあらわされたのですから。(感謝聖別II)