最後の審判でのアブラハム,ヤコブ,イサク. アンドレイ・リュブリョフ作, 1408年. |
降臨節は王なるイエスさまを迎える準備のとき。洗礼者ヨハネは叫びます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:8)。
悔い改めの実とは、ただの善行ではありません。神さまと繋がった行いです。「マムシの子らよ」と呼ばれたファリサイ派は「われわれの父はアブラハムだ」(3:9)と言い、何もしなくても血筋によって自分たちは救われる。異邦人は救われないと考えました。これはすべての異邦人をも祝福する神さまの心を知らない生き方です。
それに対して洗礼者は「神はこんな石からでもアブラハムの子らを造りだす」と言いました。 血縁ではなく、神さまと繋がって悔い改める人こそがアブラハムの子だと。
アブラハムの本来の使命は「神に祝福され、すべての異邦人の祝福の源となること」(創 12:2,3)です。自分だけが血筋によって救われるのではない。他人を祝福することです。「祝福を祈るのであって、 呪ってはなりません」(ロマ 12:14)。
そしてすべての人と共に神を讃える。聖餐式のような賛美を共に捧げること。それが真のアブラハムの子が結ぶ「悔い改めの実」です。
このアブラハムの使命を完成し、究極の祝福の源となられたのがイエスさまです。祝福から見放された人々を祝福し、人の不幸を背負い、呪われて死に、 復活してご自分の存在を与えて祝福されました。「わたしは 世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28: 20)
聖餐でイエスさまと繋がろう。そして悔い改めて本当のアブラハムの子、祝福の源になろう。 人を祝福しよう。人を否定せずに肯定しよう。自分の存在を惜しまず与えよう。そして一緒に父なる神を讃えようよ。 祝福の源になる。これ以上に幸せなことがあるでしょうか。