病気が悪くなるたびに「健康になりたい」と願います。老いていくたびに「若くありたい」と願います。死が避けられなくても、最期まで自分らしく生きていたいと願います。これは病気や老いなど、すべての死の力に負けたくない、という自然な願いです。
イエスさまは、自ら復活することでこの願いを成就し、「死を滅ぼされました。」(聖餐式) だから「復活は理性的ではない、最後は死に負ける」と言う聖職者らに、溢れんばかりに命を告げられました。復活を強く信じておられました。その表現が「もはや死ぬことはない」です。(20:36)
この世の時間では、死んだ人は死の力に負けたとされます。いなくなった、遠くへ行った、会えない、悲しい…
しかしイエスさまが復活し「次の世」が始まりました。(20:35) まだ完成はしていませんが、既に始まりました。この「次の世は」遠い「あの世」ではありません。今この地上に来はじめ、終わりの日の復活によって完成する、神の新しい時代です。この新しい時代が完成する終わりの日、体は復活します。
ただし誤解してはいけません。復活すれば、イエスさまの復活の体がそうであったように、この世の身体がそのまま続くのではありません。それでは延命治療のように退屈、または絶望です。そうではなく「天使に等しい復活の子、神の子」(20:36)になるのです。
復活した私たちには、もはや病気も障害もない。老いも死もない。すべては癒され、若く健康な命に溢れた新しい心身に造り変えられます。全ての涙は笑顔に変わり、抱き合って再会を喜びます。
そして必ず復活することになっているのですから、復活の日を待っている今、死んだ人たちは、神さまの時の中で生きています。神さまの胸の中に大切に抱かれています。もはや死ぬことはありません。死の力に負けていません。復活を待ち望み、生きています。今ここに、あなたの最も近くで既に始まっている神さまの時の中で。神さまは「生きている者の神」だからです。(20:38)
「わたしの復活を信じなさい。生きていることを信じなさい。もう死の力に負けていない。わたしも、あなたも、あの人も。」