当時のファリサイ派は神の戒めを厳しく守る皆が認める指導者だ。だから自分の価値を確信し天を仰いで祈る。だがそれは他人と比べて自分を「感謝する」独り言だ。
徴税人は「謙遜の模範」ではない。ローマの威を借りて同胞から金をゆする悪人だ。だから指導者や祭壇に近寄らず、天も仰がず、ただ胸を打ち続ける。これは虐げてた人々に対する申し訳のなさと、後悔の念による息苦しさだ。ここに他人との比較はない。神さまと一対一だ。
今まで無視してきた自責の念が沸き上がる。自分は悪かった。息苦しい。そして自分の過去を悔い、自分を神さまの憐れみに任せた。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」これは人には言えない心の内奥での対話だ。
そしてイエスさまは言う。義とされる、つまり「もうそれでよい」と神さまが言うのはこの徴税人の方だと。
私自身、洗礼を受け、聖職にもなった。そこで「他の牧師と比べて、自分はそこそこ良い牧師だ」と無意識にも思っていたことがある。だが「どのような秘密もみ前に隠れることはありません」。
今でも中学生の頃の自責と懺悔の念が胸を苦しめる。野球の友達を「いじって」いたことは、彼には「いじめ」だっただろうということだ。こんな奴が司祭だとは……
しかし聖餐式でイエスさまは、一緒に胸を打ち祈ってくださる。私たちが神の赦しによって悔い改めるように。そして十字架で私たちの悪と共に死に、復活で私たちを変えられる。今度は人を大切にすることのできるように。
だから胸を打つ後悔と懺悔は、聖餐式に持ち込もう。
「一緒に胸を打ち続けるから。悔い改めて赦されるまで。義とされて家に帰ろう。」