Eugène Burnand (1850-1921) 'The Unjust Judge, Museum of Moudon |
以前に、パワハラを決めつけられたことがある。たった一度の面談でだ。それは偏見によって既に決まっていた結果に誘導する面談だった。
苦しかった。私は完璧な聖人ではないが、それでも正しい裁きを求めた。それは裁きをただ祈り待つ、忍耐の日々だった。結局は違う委員会が再調査をしてくれて、冤罪を晴らしてくれた。正しい裁きが行われた。私は救われた。
ルカ18:1-8は、一人のやもめが裁判官に裁きを忍耐強く何度も訴え、聞き入れられるという譬えだ。それが「気を落とさず祈る信仰」の姿勢として勧められている。
やもめの裁判の内容は分からない。だが聖書全体が語る裁判は、個人主義には留まらない。孤独な一個人に祈りを勧めるだけではない。
それは「選ばれた人たち」と呼ばれるイスラエル共同体だ。ヤーウェなる主がアブラハムとその子孫を選び、永遠の誠実を誓われた民だ。
自らの裏切りによって国を滅ぼした民は、決して完璧な「聖なる民」ではない。驕り高ぶって敵を呪うのでは無い。逆に罪深い民だ。だが神が選び、誠実を誓われたがゆえに民を赦し、敵を裁き、救われる。それが神の国だ。
神の国がイエスさまのうちに始まった。十字架刑から復活されたイエスさまは、正しい裁きが行われた証拠。イエスさまにかけられた悪い容疑はすべて覆された。復活の命のうちに、神さまは正しい裁きを表された。新しい命が始まった。民は救われた。
私たちは神さまの裁きによって救われる。救いとは、すべての悪と病魔と死が裁かれること。そのとき私たちは救われる。正しいからではなく、神に選ばれた民だから。
神さまの優しさだけではなく、力強い裁きを「気を落とさずに祈り求めよう。」