主なる神に感謝しましょう
(祈祷書p.173「感謝聖別」)
「最後の晩餐」より、ピーテル•ルーベンス1631 ブレア美術館、ミラノ |
荒木は「病者陪餐」を運びますが、「執事分餐式」を現在していません。信仰生活上、良心の咎めなくそれを司式できないのです。
それは「聖餐式とは何か?」「礼拝とは?」「御言葉とは?」と様々な問いと関係します。
聖餐式とは、救いの感謝を祈り、最後の晩餐を想起し、パンを聖別し、裂き、食してキリストと一体になる神秘です。機械的な魔術ではなく、御聖体を通した祈りの交わりです。
本来この感謝聖別と陪餐行為は一体なのですが、例外の一つが古代から行ってきた「病者陪餐」で、もう一つは最近15年間の「執事陪餐式」です。両者とも一つの聖餐式の「延長」として陪餐を他の場所で行います。
問題は「どこまで延長できるのか」です。
執事分餐式は他の聖餐式の聖体を保存し、感謝聖別の祈り無しに陪餐します。奈良の聖餐を上野に運んだら、奈良の感謝の祈りが延長し、上野の1ヶ月前の聖餐を保存したならその感謝聖別が1ヶ月延長していきます。
無理が生じていくのはこの辺りだと私は思います。聖別は有効でも、心情的にどれだけ元の感謝聖別に一致できるでしょう。祈りと御聖体を分離してしまうと、愛するキリストとの霊的で人格的な交わりに、心理的な悪影響が出ると思います。どう思われますか?
どうかわたし達が聖餐の神秘をよく知り、聖餐式の中で、愛するイエス様と霊的に交わり、一体となり、感謝聖別を生きていくことがでますように。イエス様があなたの内に。