新潮日本文学アルバム宮澤賢治、57ページ |
「しなければならないことをしただけです」(ルカ17:1-10)
疲れた人を更に働かせ、しかも感謝もしない。なんてひどい主人の話だと思っていた。だが要点はそこではない。
もちろん感謝されれば嬉しい。だがこの人は主人の感謝を求めて働くのではない。
イエスさまが伝えたいのは「神の御心をあたりまえに行う喜び」。この人は働いたあとに言う「しなければならないことをしただけです。」
この人はなんと幸せに満ちた人か。一切の「承認欲求」がない。感謝も誉れも評価も全く必要ない。ただ主人の御心を「あたりまえに行う」こと、それ自体が喜びなのだ。私たちが死ぬとき、このように満ち足りて言えたなら、それはどんなに幸せなことか。
宮澤賢治は、「雨ニモマケズ」の詩のなかでこう願う。西に東に働き回ったあとは「ミンナニデクノボートヨバレ/ ホメラレモセズ / クニモサレズ/ サウイウモノニ/ ワタシハナリタイ。」
この人は謙虚だ。どんな評価も要らない。「デクノボー」または「取るに足らない僕」でいい(17:10)。ただ神さま(仏さま)の心を「あたりまえに」行うことが嬉しい。「わたしの神よ、み旨を行うことはわたしの喜び」(詩40:9)。
「主の僕」イエスさまも、感謝も承認も評価も要らない幸せに満ちた人だ。父なる神の御心を行うこと自体が喜びだった。たとえそれが十字架の道であり、その苦しみがひと時も去らなかったとしても、それでも喜びだった。
このイエスさまは死ぬときに言われた。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」(23:46)「あなたの御心をただあたりまえに行った人生は、とても幸せでした」と。
だから復活のイエスさまは私たちを解放される。一切の承認欲求から、御心をあたりまえに行う喜びの人へ。