Harold Copping Illustration From The Parables of Our Lord by Theodora Wilson Wilson (The Religious Tract Society) |
これはイエスさまに不平を持つ人に語られた譬えだ。「イエスよ、なぜあなたは神の敵である、悪人や罪人と食卓を共にするのか」と。
答えてイエスさまは語られた。「お前も自分の大切な羊1匹がいなくなったら、ほかの99匹を置いてでも捜しにいくだろう?」
これには論敵も答えただろう。「当たり前だ、捜しに行かないわけがない」と。
ここでイエスさまは、この捜す「自分」を「神さま」に置き換えて衝撃を与えられる。「お前が必死で捜すのと同じように神は捜しておられる。罪人を、悪人を、そして不平を言うお前をも。愛して、捜して、見つけて、そして喜ばれる。神の愛はそこまで強く、必死なんだよ。」そこで知る。自分こそ神さまが必死で捜してくれていた罪人だった、と。
現代日本人には身近ではない「羊飼いと羊に」の代わりに「必死に捜したもの」を考えてみよう。落とした財布、忘れた水筒、仕事、結婚相手・・・あなたは何を捜しただろうか。
私の一番大きな捜しものは「生きる意味」だった。18歳から必死に捜した。父に尋ね、本を読み、旅をし、海外へ行き、先生に出会い、諸宗教に触れ、兄弟姉妹に会い、信仰を見つけた。礼拝ではよく嬉し涙を流した。
しかし今思い返すと、自分が必死に捜していたのと同時に、実は神さまが私を捜し回り、見つけ、喜んで下さっていたのではないかと思う。そう確信する。
いまは、必死に捜していた頃の自分を通して、神さまを知る。神さまとはどんな人をも、いや、悪人や罪深い人をこそ、必死に捜し続けておられるお方だと。
だから祈ろう。すべての人が神さまを知るように。人生の捜し物をしているとき、実は既に自分を捜してくださっていたということを。