理不尽だ。それまで共に食事をし、教えて下さっていた先生。戸を閉める時には告げてくださるはず。だのに急に戸を閉められた。そのあとは戸を叩いても入れてもらえない。しかも無学な異邦人たちが来て戸口に入り、中で宴会をしている。
イエスさまが訴えるのは「悔い改めて、神の国に入る機会を逸するな」「今を逃すな」だ。
「入ろうとしても入ることのできない」(24)とは能力の問題ではない。時の問題だ。「いつでもいい、後からでも悔い改める機会はあるさ」という緩んだ心では「今」開いている戸口を通り過ぎてしまう。そしてイエスさまが再び来られた後ではもう遅い。「私たちは選ばれた民、アブラハムの子」と訴えても後の祭りなのだ。(ルカ3:8)
神さまとの関係では二度と機会がないことがある。当時イスラエルの民にはイエスさまを拒絶して「今」を逃した者が多かった。それは私たちも同じ。日々、神さまの「今」の戸口を逃さずに悔い改めなければ、戸口は閉まって後悔するのだ。
私たちのために「今」開いている戸口はどこにあるのか。
その一つは大切な人とのこの世の別れ。良い思い出に感謝し、傷つけられた過去を赦し、傷つけた過去を謝り「また会いましょう」と約束して別れる。この「今」の機会は一度きりだ。
諦めるのは早すぎる。イエスさまは「エルサレムで死ぬ」という「今」の戸口に力を尽くして入られた。そして私たちを変えて力をお与えになるからだ。
愛する友よ、今を逃すな。『今』の戸口に一緒に入ろう。