頭でっかちで実行しない律法学者
そう祈るように読むと、実はこの頭でっかちの学者はイエスさまに変えられていく過程にある、と気づきます。ルカでは「最も大切な律法は」の答え「心を尽くし…」(申6:4)を、イエスさまは学者本人に答えさせます。(本人が答えるのを待つカウンセラーのよう)それでもなお学者は「私の隣人は誰か」という頭の中の議論に留まろうとします。「隣人ではない罪人を愛するあなたは律法に反してはいないか」。この学者にイエスさまは語られたのです。
罪人が私の隣人になってくれた衝撃
エルサレムからエリコへ治安の悪い道を降りていく人は律法を守るイスラエル人。学者は自分を重ねて聞いたでしょう。案の定この人は襲われ半殺しにされ捨てられます。そこに自分が「偽善の神殿礼拝者」と批判する祭司が通りかかります。少し期待しましたがやはり何も行動せず通り過ぎます… 次は補助役のレビ人。思った通り何も行動せず見捨てられた。そして来たのはサマリア人。敵であり律法を守らない罪人。いや、守らないばかりか自分たちこそ真のイスラエルだと言い張り、律法を歪め、エルサレムを否定する愚か者。絶望的だ。
だのにこの罪人は「憐れに思った」(33)。この言葉は放蕩息子の父親や、ナインのやもめへのイエスさまのように「はらわたが突き動かさせられる」憐れみ。神の憐れみを表します。
そしてサマリア人は7つも行動しました。「注ぎ、包帯をし、乗せ、連れて行き、介抱し、銀貨をとり出し、払います。」罪人が憐れんで行動したという衝撃を受けた律法学者は問われます。「誰が襲われた人の隣人になったか。」「良いことをしたのは誰か」の倫理の答えだけではありません。「あなたの隣人となったのは誰か」です。「罪人サマリア人」とは苦しくて言えず「その人を助けた人です」と答えます。そしてイエスさまは再び命じられます。「行ってあなたも同じようにしなさい」。自分の隣人となってくれた罪人サマリア人のように。
罪人は実は憐れみの神であった衝撃
イエスさまが十字架で殺された時、みんな「呪われて殺された罪人」と思いました。しかし実は逆でイエスさまは、行動力のない罪人をも、心と精神と力と思いを尽くして愛して隣人になり、命をも与えてくださった。この衝撃が弟子ら行動力のある宣教者に変えたのです。
律法学者はその後どうなったか。それは私たち一人一人が行動で決めること。イエスさまは頭から心へそして行動へ、人を変え、憐れみの道へ招かれます。どれだけ失敗しても諦めることなく招き続けられます。「実行しなさい」「行ってあなたも同じようにしなさい。」