遺産相続と賢明な訴え
仲の良い兄弟が遺産相続で揉める。それは財産を少しでも多く欲しい、という貪欲(強欲)からです。でも本当に怖いのは自分の中から強欲が湧くこと。病気や休職、老後、子供の教育、教会への献金…欲しがる正しい理由はいくらでもあります。私の強欲の根っこは不安です。そして不安と強欲によって、私は金の奴隷となり、金に縛られ、金に支配されます。
死と神の前での命—(愚かな)金持ちの譬え
この金銭の支配に対しイエスさまは言います。「人の命は財産によってどうすることもできない(財産によらない、財産のうちにはない)」。この「命、zoh」は肉体の生命ではなく、神の前の新しい命、幸せ、救いです。
そして「愚かな(賢明な)金持ちの譬え」を語られます。豊作だった実りを新しい「倉」を建てて保管しました。ヨセフのように将来のために備えたのです。賢明です。私も臨時収入があれば、少しは献金したり使っても、多くは大切に貯金して将来に備えます。同様に金持ちは、その日暮らしの貧しい人たちを忘れ、財産による豊かな生涯を独白します。「これで何年も生きられる。食べて飲んで楽しもう。」そこで神さまに言われるのです。「愚か者、今夜、お前の命を返してもらう。お前は新しい命を、本当の幸せを買えたのか?」そして結論「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」強烈です。今夜死ぬなら私は何を持って神の前に立てるのでしょうか。神の前の豊かさとは何でしょうか。
烏と神の国
答えは後の箇所にあります。そこには「倉」を建てずとも全く安心している存在がいます。それは烏です。野の花です。何の財産もないのに父は必ず養い、何の衣服もないのに父は必ず着飾って下さる。父に信頼し切っている。何の不安も強欲も支配もない。神の前の豊かさとは信頼です。
仏教で「強欲」の反対は「無欲」ですが、聖書で「強欲(金の支配)」の反対は「神の国(支配)」です。金の支配ではなく神さまの嬉しい支配、「み国」が来ますように。神さまに治められ、解放され、守られて生きる自由。
神の支配を始められたイエスさま
父に全く支配されて生きることで神さまの支配を開く。愛と正義の支配を実現する。イエスさまはそのために死なれ、復活されました。私たちがどんな強欲と不安と金銭に支配されていても、のそ支配から神のさま支配に入らせる。そのためにみ子は「御手を広げて苦しみを忍び…悪魔のかせ(支配)を打ち破り、新しい命に復活して勝利を現されました」。
だから、命をお返しする夜の来る前に、聖餐でイエスさまと一つになりって父を信じ、金銭の支配から解放され、神さまの支配されましょう。
「もう強欲と不安と金銭に支配されなくていいんだよ。私と一つになって父に支配してもらおう。そこには不安も強欲も金銭の支配もない。神の国の安心と自由がある。神さまの支配こそ、本当の豊かさなんだ。」