良い司祭になる。そのために時間と体力を献げてきた。病気を患ってからは苦しみに耐えて献げてきた。もっと良い説教が、もっと良い牧会ができたはず、と。皆さまも信徒として、一人の人間として、苦しみに耐えて多くを献げてこられただろう。
だが私たちは、どれだけ献げても不十分だ。どれだけ愛しても、どれだけ与えても、どれだけ反省しても、どれだけ働いても不十分だ。罪と弱さが残る。どこまで献げれば良いのか。受け入れられるのか。不安になる。
だから旧約の祭司は「毎日いけにえを献げる必要」があった(ヘブ7:27)。何度も何度も献げなければならない。
しかしそんな私たちにイエスさまという「大祭司」(7:28)が与えられた。この大祭司が献げたのはご自分の命だ。「このいけにえはただ一度、ご自身を献げることによって成し遂げられた」(ヘブ7:27)。人となった神イエスさまが、苦しんでご自分の命を献げられた。この「ただ一度の献げ物」によって私たちの罪は赦され、欠けは十分に満たされ、人間性は成就した。完全に神に受け入れられた。
それは私たちが、弱さと罪にために献げ切れない自分自身まで、イエスさまが私たちに代わって、私たちと一体となって献げてくださったからだ。もう一切、不安はない。
イエスさまの命。この「ただ一度の献げ物」に与かって、今度は不安なく、毎日続く人生を感謝と賛美に変えて、神に献げよう。大祭司イエスさまこそ私たちの「献げる生き方」の本当の姿であり、神の似姿なのだ。私たちは皆「キリストの祭司職」に与かる共同体だ(祈祷書「洗礼」)。
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