両親は倹約家だ。だがその両親が「このために貯めてきたんやから」と大学の授業料を出してくれたとき、私は自分が両親の愛情の対象である喜びと重みを実感した。それまでの倹約と労働の実りを一身に私に向けてくれたのだ。
古代教会で回し読みされた説教であるヘブライ人への手紙も、神の共同体を表す「神の家」という例えを用いて、同じように神の愛と忠実が一身に自分たちに向けられた喜びと使命を語る。
神の家のために忠実に働く者は多くいた。その代表がモーセだ。奴隷の民を導き出した。しかしモーセよりもイエスさまのほうが「栄光に受けるのにふさわしい」(3:3)。死に至るまで忠実であったからだ。モーセは家の柱だが、イエスさまはその家を建てた者である神だからだ。モーセは家に「仕える」が、イエスさまは神の息子として家を「治め」られる。(3:6)
驚くべきことに、ここで説教者は「あなたも神の家のために仕えろ」と言わない。そうではなくあなたたち、「私たち」こそ、モーセが仕えイエスさまがその苦しみと復活によって建てた「神の家」(3:6)だと宣言する。神の労働の実り、忠実な愛の対象だと。他の誰でもないこの小さく弱く、過ち多い私たちこそ「万物を建てる神」(3:3)が選んで、集めて、建てて、忠実に守り導き、用いる神の家だ。私たちが選んだのではない、神が私たちを選んだのだ。私たちは神の忠実な労働の実りを一身に受けた神の家なのだ。
今朝の聖餐のうちに、神は私たちに働きかけご自分の家、ご自分の世帯にされる。私たちには神が働いている。この「確信と希望に満ちた誇り」を忘れずに生活しよう。私たちは神の労働の実りだ。
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ジュリア・スタンコバ作、イコン「最後の晩餐」2021年。http://www.juliastankova.com/galleries/2021.html