お喋りしていると急に妻に言われる。「あんたほんま自分のことばっかり話して、人の話は聞いてへんなぁ」。それで自分の気持ちは一旦停止。「ごめん、なんやったっけ?」「もうええわぁ。」「ごめん・・・」
弟子はイエスさまが歩んでいこうとされる「苦しみの道」を聞き取れなかった。それは「誰がいちばん偉いか」議論していたからだ(マルコ9:34)。自分のこと、自分の状態に気を奪われていたからだ。
信仰も同じ。自分のこと、自分の状態にあまりにも気を取られているあいだは、神さまの本当の状態が聞きとれない。自分の状態を気にし過ぎる心を停止させて、相手に聴き入ることこそ信仰だ。
だから「いちばん先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(8:35)。これは決して「謙虚さを得て良い人になれ」ではない。そんな自分の状態も忘れ、何も得ず、ただ仕え続けなさい、だ。
そしてそのように自分を大きくすることに忙しい私たち弟子を前に、子供を抱いて言う。「このような子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。」当時の子供は「純粋無垢でロマンチックな存在」ではない。発言権も人権もない無に等しい存在だ。そんな存在をイエスとして、また「お遣わしになった」神の代理として受け入れる。これは想像を絶する驚きだ。自分には何の得もない存在を、自分の状態への捕われを一旦停止にして、受け入れることだ。これは愛することだ。自分を与えることだ。
無視される存在、人知れず泣く心、何の恩返しもできない存在、そんな小さな存在を受け入れるとき、神の語りかけを初めて聞く。「わたしが受け入れた最も小さい存在。それはあなただよ。なんにもない、なんの偉大さもない、そのままの小さなあなた。わたしはそんなあなたを愛しているのだよ。」