ペトロは「苦しみはイヤ、死ぬのなんて絶対イヤ」と思った。亡国を復興させる王なるイエスさまが栄光ではなく「多くの苦しみを受けて殺される」と言い出したのだ。(マルコ8:31) 先生が苦しみ死んでいく運命にあるなんて受け入れられない。ましてそれに続く自分も苦しむことになるなんて、もっと受け入れられない。
それに対してイエスさまは信仰の核心を一言でこう述べた。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。これは無意味な苦しみを好き好んで我慢しろ、ではない。避けられる苦しみは、神に感謝して避けるべきだ。しかしそれでも生きるため、愛するためには避けられない苦しみがある。それを自分の都合や利益や自我をかなぐり捨てて受け入れる道、それが信仰だ。
イエスさまにとってどうしても避けられない苦しみが「友のために自分の命を捨てること」だった(ヨハネ15:13)。友と呼んで愛する私たちを解放するために、全人類が苦しんでいる苦しみを自ら受け入れ、受け止め、受け取られた。そうして苦しみを超える自由な命を開かれた。「栄光に輝く」復活の命が、十字架によって始まったのだ(38)。十字架の苦しみを受け入れたから、命が開かれた。
病気、老い、死、死別の苦しみ、人間関係のストレス、失敗の不安、挫折体験、自分の祈りの浅はかさまで・・そのような避けられない自分の苦しみから逃げ回るのではなく、自分を神に向かってかなぐり「捨て」て、苦しみを「十字架を背負う」ように受け入れるとき、私たち自身の根底はイエスさまと共に神に開かれる。そして神の命が私たちに開く。
「もう自分自身に縛られなくてもいいんだよ。もう自分は捨ててもいいだよ。わたしがいるんだから。苦しむ自分はわたしに捨てなさい。受け取ってあげるから。そしてあなたを命に開いてあげるから。」
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挿絵: ジーガー・ケーダー(神父)「隅の親石」 「神の愚かさ、十字架の道行」より
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