キリストと修道院長メナス |
中学生のころ私は「ふざけた奴」だった。二歳下の妹は「荒木の妹」と呼ばれるのが恥ずかしかったそうだ。兄として良いことどころが悪いことばかりしてきた気がする。人間のきょうだい関係はなかなか理想的にはいかない。
だが私には素晴らしい兄がいる。この兄は愛情深く、いつも気にかけてくれていて、孤独な時に共にいてくれて、最悪の事態から助けてくれる。その名はイエス。イエスさまこそ私たちのきょうだい、兄だ。「私は、きょうだいたちにあなたの名を告げ知らせ、集会の中であなたを賛美しよう」(2:12、詩22:22)。初期教会の信徒はこの詩篇の言葉にイエスさまが兄となってくれた喜び、私たちをきょうだいと呼んでくれた喜びを聞きとった。なんと嬉しい声か。
この兄さんが私たちを「栄光へと導く」(2:10)。私たちは罪と憎しみ、病と死の悲しみで終わらない。兄なるイエスさまが「導き手」となり復活の栄光に輝かせてくださる。
そのために兄なるイエスさまは、私たちと「あらゆる点できょうだいたちと同じように」なってくださった(2:17)。神が私たちのきょうだいとなり、死に至るまで私たちの状況とまったく同じになってくださった。そして「ご自分の死によって、死の力を持つ者」を無力にしてくださった(2:14)。病と老いと死、またはそこから生ずる悲しみと罪の根源である死の力を持つ悪魔を、ご自分が死を苦しむことで滅ぼしてくれた。そして私たちを「解放」してくださった(2:15)。
神はあなたのきょうだいとなり、死に至るまで同じになられた。喜ぼう。私たちには兄がいる。きょうだいがいる。