その浪人生はもう限界だった。彼女はテストが苦手で高校も大学もありとあらゆる受験にことごとく失敗し、さらに迫り来る2年目の大学受験にも合格しそうにない。青春の只中で、絶望していた。
そうして彼女は教会に辿り着いた。そこで牧師夫人に、涙ながらに語る自分の不安な気持ちを、忍耐強く聞いてもらった。その牧師夫人は話をよく聞いたあと、もう何にも掛けてあげる言葉が尽きたのか、最後にアカペラで聖歌481番を歌ってくれた。
この世の波風さわぎ
いざないしげき時も
悲しみ嘆きの嵐
胸に荒ぶ時にも
み前に集い祈れば
悩みさり憂きは消ゆ
いざともにたたえ歌わん
恵み深き主のみ名
自分のために歌ってくれた聖歌に、その共感に、浪人生は心から慰められた。それからというものずっと、この聖歌は彼女の人生の応援歌になった。そして、いつしか神の不思議なご計画により、彼女自身も牧師夫人になった。
聖歌は、個人の満足を超えて、「互いに語り合うため」に歌えとパウロは勧める。人が苦しい時、慰めが必要な時、病気の時、死が近い時、言葉にならない時、そしてたとえ戦後の焼け野原でさえ、私たちには聖歌がある。下手でいい。真心を込めて「人のために」歌えば、それは人生を支えるほどの力を持つ。
イエスさまは十字架につけられる前夜に歌われた。「一同は賛美の歌を歌った」(マルコ14:26)。弟子らはその歌声を覚えていて、それに慰め励まされ、生きていった。
「あなたのためなら、わたしはいつでも歌うよ。だから元気を出しなよ、一緒に歌おうよ、恵み深き主のみ名を。」