成長する息子が鏡のように自分のかたちを映し出す。自我の強いところ、一つのことに集中するところ。人に優しくあろうとするところが映ると、嬉しい。私は願う。「良いところを映してほしい」と。
同様に人間は神のかたちを映し出す「鏡」のように造られた。「神は人をご自分のかたちに創造された」(創1:27)神は私たちを通して世に表したい。ご自分の愛と誠実を。
しかしアダム(ヘブライ語で「人間」)である私たちは、悲しきかな創造主ではない被造物を映し自らの鏡を壊す。それが蛇であり悪魔であり、罪と死の力だ。
アダムの生き方はエフェソ4:17では「異邦人の生き方」だ。他宗教を侮蔑するのではない。私たちの中にも「神を映さない生き方」は未だに巣食っている。そして「知性は闇に閉ざされている」(4:18)。人生を知っていると言うが、最も大切な神の愛を知らない。だから「この世はむなしい、生きている意味もない」と思ってしまう。本当の「真理はイエスのうちにある」のに、それを映さない。(4:21)
壊れた鏡としてまともに機能できない私たち人間を神は修復しに来られた。神自ら人となり、罪の悪さと死の力をその身に受けて始末された。そして復活し、新しいアダム、神のかたち、「神にかたどって造られた新しい人」になられた(4:24)。洗礼によって私たちはこの新しいかたちを着る。そして私たちの鏡は新しくされ、今度こそ神の愛と誠実を表し、感謝と賛美に喜び溢れる存在に。
「わたしが死んで復活し、あなたの鏡は新しくなった。あなたはかけがえのない私が愛する作品。その鏡で表してくれ。この世に愛を、わたしに賛美を。」
思えば父も願ったであろう「良いところを映してほしい」。 その願いを叶えたい。