私たちはこの世的には歳をとったかもしれない。人生の酸いも甘いも体験したかもしれない。信徒数を数えては「既に成長しきって、あとは衰退するのみ」という風に言う。まるで自分たちは既に「成熟して」完成したかのように・・・。
しかし愛そのものであるイエスさまの弟子としては、私たちはいつも未熟さを捨て、成熟していく過程にいる。愛を知らない人は未熟であり、成熟した人は「一切高ぶることなく柔和で寛容」で、「愛をもって互いに忍耐する」(1:2)。
だが人は独りで愛せない。相手が要る。自分は、隣人や教会の兄弟姉妹との関わりのなかで初めて成熟した人間になる。だから強調される。「一致を保つよう努めなさい」「体は一つ、霊は一つ」(4:3,4)。愛し合い、優しくし合い、時には臆せず「愛に根差して真理を語れ」(4:15)。
これは単なる倫理を超える。愛で成熟した人間関係には「キリストの満ち溢れる豊かさ」が現れ、その豊かさに永遠に喜んで成長していくことができる(4:13)。この成長を神は「キリストにより」与えられると約束されるのだ(1:16)。
神でありつつ、人間らしい人間、成熟した愛の人となられたイエスさまが呼ぶ。「わたしの愛に成熟し、それを喜ぼう。」