「私こそ深い霊的指導者だ」「いや私こそ使命感で動いている使徒だ」という 醜い言い争いの終わりにパウロは言う。
「私の体に一つの棘(トゲ)が与えられた。」 あなたにとっての棘はなにか。病気や障害、自分を傷つける人、失敗体験や、過去の心の傷もそう。私にとっては日々苦しめられている「躁うつ病」が私の体の「棘」だ。
決してパウロは禁欲的に「苦しみはよいものだ」と言うのではない。その棘は(神の支配下にあるとはいえ)悪魔からの使いであり、よくないものであるから、「離れ去らせてくださるように、三度主に願った」。(2コリ12:8) 一度ならずも三度、というのだから、ゲッセマネの主イエスさまのように「血の汗を流して」、心の底から真剣に神に助けを求めたのだ。実際、救ってくださると信じていた。先週のヤイロのように、主は必ず救ってくださると、固く信じて。
だがこの必死な願いに対する答えは、人間的な期待にまったく逆行する、しかし聖書の中で最も恵みに満ちた主イエスの言葉だった。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れる」(2:9) もっと健康に、もっと力強く、もっと霊的に優れた自分に、無理してならなくてよい。今、苦しんでいるあなたのまま、そのままの状態で、私は恵みを完全に与える。あなた自身が強くならずとも、あなたは弱いままで、私の力は完全に現れる。
あなたの弱さは、十字架の神の力が完全に現れる場所だ。その掌から傷む釘を「離れ去らせ」なかった神が、あなたの棘の痛みと共にいて、あなたを必ず全うして下さる。成就してくださる。弱いままで力強い神の命の一部としてくださる。