きちっとした身なりで教会に来る人を見ると嬉しくなります。(誰でも嬉しいのですが、よりいっそう、です)「敬意を見える形にして、神に会いに来られた」と。誰もパジャマや下着、まして「裸のままで」なんて礼拝に来ませんよね。
パウロの言葉では「誰も脱ぎたい」のではなく「上に着たい」のです。着ているほうが「自分らしい」からです。これは復活の体の譬えです。ここで「服」は「肉体」、「裸」は「体から離れた魂」です。人は死んだら肉体から離れた魂だけでフワフワと「天国」という死後の世界に行くのではありません。それはまるで裸で礼拝に出るような、自分らしくない姿です。そうではなくて、最も自分らしく美しいきちっとした姿で、いやどんな想像力をも超える神の栄光に輝く肉体をまとって、主イエスと共に父に会いに行くのです。
確かに肉体は老いて病んで「壊れ」て死に、火葬されて骨になり土になります。そして神の内に魂はしばらく休みます。しかし千年も万年も一瞬にすぎない安息の後(詩90)、神が栄光の肉体を重ね着させてくださいます。それは復活の主イエスさまと同じ体です。今までの肉体と人生を捨て去るのではありません。「死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着る」のです。(5:4) 今までこの体で体験してきた愛と喜びと楽しみは一切無駄になりません。苦しみも悲しみもすべて復活の体に飲み込まれて輝き、抱き合って主を賛美するのです。
毎主日、礼拝に着替えるとき、復活の重ね着を想いましょう。「さぁ、自分以上に自分らしい姿にしていただいて、イエスさまの輝く体を着させていただいて、愛する天のお父さまに、会いに行こう。」